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2020-05-01

河上 暁弘(広島市立大学広島平和研究所准教授)

 新型コロナウイルスの感染拡大は、世界中の人々を不安に陥れています。こうした中で、自分のことが不安すぎて、政治や社会のことを考える余裕がない、考えるという営み自体がしんどい、そんな精神状態が世界を覆いつつあります。そして、こんな時こそ強いリーダーに全てを委ねたくなる―新型コロナはこうした「危険な兆候」を世界にもたらしつつあります。ポストコロナ時代には、世界中が独裁政権であふれるだろうという悲観的観測もあります。また、コロナ対応という危機的状況・例外状況で国家が手にした強権を手放そうとせず、人々も恐怖から逃れるためならば、監視社会を受け入れ、自由を制限することに疑問を感じなくなる危険性もあります。しかし、はたして本当にそれでいいのでしょうか?

 安倍晋三政権はいま、補償を十分することなく「自粛」のみを唱えています。「自粛」なので本人たちの自発的判断にすぎない、補償は必要ない、政府の責任ではないと言わんばかりです。憲法25条は、すべて国民には、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利があると規定し、国は全て生活部面において社会保障等を向上及び増進すべきことを定めているにもかかわらずです。コロナ対策として打ち出される政策も予算措置も、行き当たりばったりのもので、しかも、遅すぎて不十分なもの (Too Late, Too Little )、困窮する国民の切実な声にこたえていないものばかりが打ち出されます。これでは、やむを得ないとして営業や出勤を続けることによる感染拡大、そして経営破綻や経済的貧困を止めることはできません。「補償なくして自粛なし」の視点が重要です。

むしろ、こうした時こそ、一番弱い、困っている人をいかに助けるかという発想が政治には求められます。弱者は日々変わり、それはあなた自身やあなたの大切な人になるかもしれません。弱肉強食と分断が社会を覆うと、多くの人々が生きる道を失い、いのちと尊厳を守れなくなり、また、助け合い高め合う中から生まれる知恵=問題の解決法を失い、世の中全体が希望そのものを失うことにつながります。

法律上の「緊急事態宣言」では対応が十分できないなどとして、憲法を改正して「緊急事態」条項を設けようとする問題提起を安倍政権は行っています。安倍政権のここ最近の数々の失策、対応の遅さ・不十分さ、対応の誤りを憲法のせいにするかのような言説ですが、その危険性は日本の過去の歴史に照らしても明白だと思います。無能あるいは有害かもしれない政府にすべての自由・人権を委ねてしまったら、過ちがあったときにそれを是正することが極めて困難です。批判することさえできなくなる危険性もあります。また、そうした権限は、不当な目的で発動されやすく、無制限に延長される危険性があり、またその権限行使の妥当性を他の国家機関や国民が判断し停止することも困難を極めます。

自由は一度失うとまず返ってこない―憲法記念日にあえてこのことを問題提起させて頂きたいと思います。

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