藤野 美都子(福島県立医科大学)
オリンピック聖火リレー出発の地とされた福島から考える
3月26日、聖火リレーは、福島県浜通りにあるナショナルトレーニングセンターJヴィレッジで、グランドスタートが切られることになっていました。福島が東日本大震災・福島第一原発事故から復興の途を「着実に」歩んでいるというメッセージを日本全国に、世界各地に伝えることになっていました。新型コロナウイルス感染症の拡大により、オリンピックは延期、リレーも中止となり、期待していた人々にとっては残念な事態となりました。
しかしながら、私はリレーがスタートを切らなくて良かったと思っています。福島が少しずつ傷を癒し、前に進んでいるという側面はありますが、「復興」というには、あまりにも早過ぎます。事故から9年が経過しましたが、直近の県のデータでも、4万人近い人が避難生活を続けています。福島第一原発の地元大熊町と双葉町では、多くの住民が故郷に戻ることを諦めました。第一原発の廃炉作業の見通しは明るくありません。加えて、溜まり続ける汚染水の海洋投棄が進められようとしており、被災地の人々の気持ちを暗くしています。基本的人権の保障はどこにいったのでしょうか。
他方、昨年11月25 日、原発事故の際の前線基地となるはずだった、そして実際には役に立たなかった大熊町の旧オフサイトセンターの解体工事が開始され、運休していたJR常磐線も今年3月14日に運転を再開しました。原子力政策の失敗をなかったものとし、目につくところを取り繕い、復興を無理に演出しているように、私には見えました。政府は、原発事故で苦しい状況に追い込まれている人々の生活に、もっと目を配り、地道な施策を展開すべきです。「弱者切り捨て」の典型的な例が多々、福島ではみられます。
新型コロナウイルス感染症対策の自粛要請の下で、生活基盤を奪われ、困っている多くの人々がいます。子どもたちの教育を受ける権利が蔑ろにされています。声の小さい人々の権利が無視されていくあり様は、福島でみられたことと同じです。このような状況を黙って見過ごすことはできません。聖火出発の地とされた原発事故の被災地であればこそ、立場の弱い人々の生活に目を配り、日本国憲法の基本的人権が保障される政治のあり様を描くことができるはずだと考えています。憲法記念日は、多くの人々とともに、日本国憲法の基本的人権の保障が、すべての人々に行き渡っているか否かを確認する日としたいと思います。