toggle
2020-05-03

根森 健(東亜大学大学院特任教授)

憲法は「緊急事態」にも必要である!

 日本国憲法は、1947年5月3日に働き出してから73回目の誕生日を迎えた。だが、目の前に広がる光景はこれまでとは全く異なった異様なものになっている。それは、言うまでもなく、世界的にも日本でも、的確な対応が遅れたために、(1)目下、死に至るおそれを伴った、新型肺炎コロナウイルス感染が広範囲に拡大し、収束の兆しが容易には見えないこと。―とくに日本では、「日本方式」と揶揄されるPCR検査実施を極力抑える方針が取られてきていることによって、その実態・実相がはっきりしない中で、ダラダラと感染拡大が続き、漠然とした底なしの「みえない不安」が醸成されたままだ。

 そして、そのこととも連動するが、(2)安倍首相や地方自治体首長による独断的で、時には唐突な形で、全国一斉の学校休講の要請、さらに、スポーツ、文化イヴェントの開催自粛、外出自粛、そして営業自粛の要請というように、「国民側への自粛」の要請が、それに見合う十分な補償もなされないまま、延々と2か月以上にも渡って続き、そして全国へと規模を拡げている。このような、「国民側への自粛」の下で起こっているのは、憲法の保障する種々の基本的人権への実質的な制限・規制や侵害である。このような「国民側への自粛」は、最初は、法的根拠さえ無しに、そして途中からは、十分な審議もないままに、国会の事前承認という必須の手続きさえ盛り込まれない形での、与野党合意による新型インフルエンザ等対策特別措置法に今回の新型コロナウイルスも加えるという法改正に基づく「緊急事態宣言」を受けての「国民の生命及び健康に著しく重大な被害を与えるおそれがあり、かつ、 全国的かつ急速なまん延により国民生活及び国民経済に甚大な影響を 及ぼすおそれがある事態」に対する措置として、とりあえず5月6日まで継続される(さらに、5月末まで延長になるようだ)。

 このような一連の「緊急事態」への対応は、法律学の世界で古今東西を問わず言われている、あの法格言を想起させる。「緊急は法律を持たない(Necessitas non habetlegem.)」という格言がそれである。類似の表現に、「緊急は法律を押しつぶす(Necessistas frangit legem.)」などというのもある。まさに、上でたどったように、安倍政権による、この間のコロナウイルス感染対策は、憲法が規定する内閣の仕組みを十分に機能させることなく、もっぱら安倍首相による独断的な側近政治の下で、十分な国会や国民への説明の無いままに、その政策内容という実体面でのブレや対応の遅さや内容の不十分さ、そして、その政策の決定・実施のための手続という形式面での「法律」の軽視・無視ぶりは、まさに、「緊急時だから何でもあり」という姿勢があまりにもあからさまなものである。

 だが、上記の法格言の本来の含意は、緊急事態にあっては、法律に基づく判断が望みえない場合があるという、人間の理知に根差した冷徹な格言であり、刑法における緊急避難がこの例にあたる。だが、この法格言が今日もなお残っているのは、むしろ、ヒトラーのナチス独裁に見られるように、政治の世界では、緊急事態(非常事態)ということに託けて、憲法をはじめとした法律の無視・軽視が行われ、法律に代わって、権力者による決断という名の独裁政治によって悲惨な結果がもたらされることの重大さへの警鐘の意味も少なくないであろう。

 このような法格言の存在を前にして、政治の担い手(為政者)がまず心掛けるべきなのは、まずは、日頃から「緊急事態」の起こりうることを想定し、まずは、日頃から「緊急事態」を宣言をしなくても済むように予防システムの構築とメンテナンスに努めること、そして、やむをえず「緊急事態」宣言を行わざるを得ない場合に備えて、そのための法整備に努め、その法整備の下、その事態への対応の必要なシステムをきちんと構築するとともに、対応措置の実施に至る判断の決定過程を事前・事後にきちんと検証できるようにすることである。日本国憲法とこれまでに積み上げられてきた憲法論は、基本的人権の必要最小限の制約はどうあるべきかとか、必要なシステム構築とその下での判断形成の適正な手続とはどうあるべきかとか、このような場面での議論に際して、必要な「指導力」を発揮する筈である。

また、今回の「緊急事態(宣言)」は、安倍政権、とりわけ安倍首相の場当たり的な「独断に満ちた決断」と「決断の迷いや回避(逃亡)」が感染拡大への対応の遅れと対応措置のチグハクさとをもたらした、「人災」ともいえるような「緊急事態」発生というべきものでもある。にもかかわらず、当の安倍首相は、今年は、「恒例」となった(?)5月3日の改憲派の集会「憲法フォーラム」でのヴィデオ・メッセージで、今回の新型コロナウイルスの感染拡大を引き合いに出して、「緊急事態で、国家や国民が果たす役割を、憲法にどう位置づけるかは大切な課題だ」として、「緊急事態条項」導入のための改憲の必要性を訴えるとのことである。 自民党の改憲案の中で提唱されている「緊急事態条項」は、元々、「外部からの日本への武力攻撃や内乱による社会秩序の崩壊」を主として想定したものであって、今回のウイルス感染症等によってもたらされる「緊急事態」とは異質のものだという点を別にしておくとしても、なお、当該条項で予定されているのは、そのような緊急事態には、内閣が自ら作る、法律と同一の効力をもつ政令によって対応できるとする、いわゆる「内閣独裁条項」である。安倍政権下では、衆議院の解散権をめぐる議論を見てもわかるように、日本国憲法では、衆議院の解散権は「内閣」にあるとされているにもかかわらず、「解散は首相の専権事項」だという誤った認識が常態化している。これを見ると、「内閣独裁条項」とは、「首相の独裁条項」だということになってしまうだろう。だとすると、今回のコロナウイルス感染での、安倍首相の「独断」がもたらした失敗から、私たちが得るべき教訓とは、このような「緊急事態条項」導入の改憲は全く「不要不急」のもので、危険なものでさえあるということであろう。

それにしても、安倍首相本人が、今回の自分がもたらした「人災」に何の責任も感じることなく、行政府の長としての首相という立場にもかかわらず、国会の質疑応答の場で、緊急事態条項の国会での改憲論議を促したり、上記のような特定の市民グループの集会の場で、「自民党の総裁」という立場ではあれ、緊急事態条項導入のための改憲の必要性を訴えたりするというのは、品の悪い表現をあえて使えば、何と「盗っ人猛々しい!」ことであろう。

(了)

関連記事