斉藤 小百合(恵泉女学園大学教員)
COVID-19「緊急事態宣言」下の憲法記念日に寄せて
「憲法研究者」として研究し、執筆し、大学で学生と共に学び、社会でたくさんの市民の皆さんと対話し、わたしがそのように生活するようになって、「憲法記念日」に合わせて、お話に伺ったり、原稿を書かせていただく機会も、それなりに重ねてきました。今回、憲法研究者の仲間たちと、このメッセージを市民の皆さんにお届けしようということになって、正直、わたしに何が書けるだろう、何を書いたらいいのだろうか、と考えあぐねてしまいました。
そこで、気が付いたのは、わたし自身の「思考」の活性化に、いつも、学生や市民の皆さん、研究者仲間、大学での同僚といった、多くの人たちとの「かかわり」が大きくかかわっているということでした。そして、その最も「かけがえのない」ところ—直接、お会いして、「生身」で語り合うこと―が、「外出自粛」によって奪われていること、私たちの多くが実感していることではあると思うけれども、わたしにはとても、とても大きいことだということを。わたしが生きていくうえで、「エッセンシャル」(必須)なのだということを。それが奪われていることで、「書く」ことにも、入り込んでいくことができないのでした。
なぜ、この状況が苦しいのか。直接、お会いして、「生身」で語り合うこと―憲法的には、移動の自由や集会の自由、表現の自由、思想・良心の自由、(教会につらなる人びとが一堂に会して礼拝をおこなうことも制約されていますから、信教の自由も!)、経済活動の自由、職業選択の自由、その他、多くの憲法上の権利・自由に基礎づけられて、わたしたちが普段は、当たり前のようにしていること―ができてはじめて、わたしはわたしらしくいられるからなのであろうと思います。だから、憲法上の権利・自由があるからこそーそれが、各人に各人の「エッセンシャル」を保障するということ―、わたしはわたしらしくいられる。憲法上の権利・自由がしっかりと保障されることで、わたしたちは、それぞれに「わたしらしく」生きていくことができる、そう考えてきました。
緊急事態宣言が出される以前の世界でも、「わたしらしく生きられない」ことで、少なくない人が生きづらさを感じてきました。それは、この社会が、憲法価値をさらに充実させることーわたしたちが、それぞれに「私らしく」生きられるように力を尽くすこと―よりも、この社会にどのくらい貢献できるか、少し前に、多くの人の違和感を引き出してしまった政治家の言葉を使えば「生産性」の有無によって、その人の価値が「選別」され、「選別」のふるいにかけられて、取りこぼされてしまっても「自己責任」のひとことで片づけられてしまうようにシフトしてきたからなのだと思います。いま、COVID-19に対応するため、医療資源の乏しい国では、「トリアージ」が行われているといいます。日本でも、すでに、ある意味で、実践されてしまってもいるでしょう。医療現場では、じっくりと考えるいとまはなく、究極の「苦渋の選択」を迫られ、直面する医療者の中には、PTSDから自死されるという痛ましい報道に触れました。医療崩壊を回避するにはやむを得ないと、「トリアージ」といういのちの選別は、より「当たり前」になって、「生産性」で判断する思考を下支えすることになってしまうのでしょうか。憲法的価値は、ますますやせ細っていきそうです。
わたしの「エッセンシャル」の喪失感を強く感じている中で、それでも、「憲法的価値」の体現に出会うことがあります。その中でも、ここでシェアしたいとおもうのは、中国・上海の、ある大学からのマスクの贈り物です。この大学は、私が勤務する大学の協定校で、昨年3月に、わたしも訪問―「生身」での出会い!―することができ、その際に、知遇を得ることとなった、ある教授が、マスクが入手できないでいる職員もいる本学にサージカルマスク2000枚を届けてくださったのです。上海が苦境に会った際に、何もできなかった自分を恥じ入りばかりですが、そこで知ることができました。この「贈り物」は、誰かの「栄誉」を称えたりするための豪華な鉢植えとか花束などではなく、COVID-19禍で、ともすれば、取りこぼされてしまいがちな、社会で、職場で、小さくされているひとへの暖かな目線からきているのです。それはわたしにとって、憲法は、法は、何を大事にしているのか、ということをあらためて痛感させられる出来事でした。社会の中で、打ち捨てられ、小さくされたわたしたちのためにこそ、憲法はある。そして、国境を封鎖し、人びとを分断し、孤立化させる政策がどんどん強化されても、わたしたちは、たくましく連帯することもできると。それが、憲法という「未完のプロジェクト」を諦めないということだと。