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2022-05-01

永久平和主義の意義

植野 妙実子(中央大学名誉教授)

 [まずは近況報告から。練馬区長交代プロジェクトを立ち上げ、初めて選挙に関わった。こちら側は新人候補者で、野党統一・市民連合一体として戦った。
投票日は4月17日。結果は95000対93000で、2100票差で惜敗した。投票率は31%である。区民の関心の低さを表している。
 しかし改めて思ったことがある。それは、自民党一党支配と思っていたが、自公プラス都民ファースト・国民に対し、その他の野党と市民が一体になるとほぼ実は都市部では互角なのだということである。小選挙区制なので国会には与党側が多く選出されてくる。しかし比例性を全面的に取り入れれば違う結果もありうる、政権交代もありうるということである。引き続き区長交代プロジェクトを展開していきたいと思っている。また市民の側に立った選挙戦のあり方や公職選挙法のあり方も考えていきたいと思う。]

 テレビでウクライナの惨状を見て胸が痛む。戦争の悲惨さをあらためて感じる。ここには無慈悲な殺戮しかない。築き上げてきた生活を一瞬にして失う、破壊するのが戦争である。絶対に戦争をしてはいけない、させてもいけない、と強く思う。

同時に戦争の理不尽さも感じる。ウクライナは18歳から60歳までの男性の出国を認めていない。「良心的兵役拒否」は認められていない。但し、軍務以外のその人に合った得意な分野の仕事にはつけるようである。多くの女性と子どもが隣国などに避難した。その数は500万人といわれている。他方で病気の子どもや障害のある子ども、高齢者は残されたままである。戦争は不平等を助長するものである。

 日本国憲法前文第二段落は「日本国民は、恒久の平和を念願し」という言葉で始まっている。これは単なる平和主義ではなく、恒久平和主義すなわち永久平和主義を示している。そして「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と述べている。憲法9条が戦争の放棄、戦力の不保持・交戦権の否認を認めたことと関わり、日本はこれまでの国家がしたような考え方、つまり平生から軍備を整えておいて、いざというときはその武力によって、自国の安全と生存を保持しようとする、そうしたことをやめ、軍備を撤廃し、戦争を放棄した、と解釈されている。これは国際的な法秩序の中で様々な事柄を解決することが求められていて、そこに信頼を寄せ、平和を守っていくことと読める。さらに、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」としている。平和のうちに生存する権利、平和的生存権が国際社会で意識される以前に、平和の中で生きることが人びとの権利であると書かれている。まさにその権利が今のウクライナの人たちには奪われている。戦争になれば、自由も権利も主張できない。人間らしく暮らすことが奪われる。平和はまさに人権保障の前提として重要である。

 日本は侵略戦争を行い、その反省と責任を基礎として、前文における永久平和主義を宣言した。憲法9条は戦争の惨禍を経験したことを踏まえて、侵略戦争だけではなく、一切の戦争を否定している。私見では、9条1項は1928年の不戦条約1条の文言との類似性から、紛争解決の手段としての戦争をすべて違法として放棄し、侵略戦争の否定を明らかにした。ちなみに不戦条約2条は、紛争の起因することが何であろうとも平和的手段によって解決すべきことを求めている。そうしたことを視野に入れた侵略戦争の否定である。さらに9条2項の、戦力の不保持・交戦権の否認から、侵略戦争のみならず自衛戦争も否定したと定めている。それでは自衛権はないのか、それに基づく自衛戦争も否定されているのか、ということが問われる。自衛権に関しては、自衛権の権利の性格と内容に関し論争がある。自衛権自体が実質的に放棄されたとする説もあるが、自衛権を認めた上で、「武力による自衛権」説と「武力によらざる自衛権」説が存在している。しかし、自衛権を認めれば、それは必然的に自衛戦争を容認することになろう。たとえ、その自衛戦争が国連における措置決定までの一時的なものであったとしても。したがって、いかに戦争予防を図るかが鍵になる。

自衛権とは「外国からの違法な侵害に対し、自国を防衛するため、緊急の必要がある場合、それに反撃するために武力を行使する権利」と解されている。戦争が違法化されるのに伴い、その例外をなすものとして、実定法上の権利としての性格が認められるようになった。国連憲章51条は、それまでに認められていた自衛権を個別的自衛権と呼び、また新たに集団的自衛権を認め、その発動の要件を明確にするとともに、その濫用を防ぐために、一定の規制を設けている。それらは、自衛権は武力攻撃が発生した場合に対するもの、他の措置をとることができない緊急やむをえない場合にのみ発動されるもの、そのためにとられる措置は攻撃を排除するために必要な限度に限られかつ攻撃の程度と均衡のとれたものでなければならない、とされている(国際法学会編『国際関係法辞典』三省堂1995年375-375頁)。

既述したようにいわゆる自衛権行使が武力行使と一体であるならば、戦力の不保持・交戦権の否認を定めたところから、自衛権そのものが放棄されていると解することになる。まずは国民の平和を求める強い意志と決意を基礎に据えて、武力行使以外のあらゆる手段を駆使して、戦争を避けることが求められる。それが基本であり、憲法9条の「戦争の放棄」の趣旨である。したがって、戦争になる前に、さまざまな武力によらない手立てが考えられるべきである。加えて9条は戦力による抑止論と与しないことを示している。抑止論はとめどない軍拡競争を招く。人々が常に戦争の脅威、恐怖の中で生きることになる。そうしたことを否定しているのである。

他方で政府は、9条は自衛権に基づく自衛戦争を否定していないとし、安保法制が成立して枠組みの広がりはみられるが、今日でも「専守防衛が日本の防衛の基本方針」、「憲法上保持できる自衛力は、自衛のための必要最小限度のもの」、「攻撃的兵器の保有は許されない」と示している(『令和3年版防衛白書』166頁以下)。しかし、兵器の大型化や多様化が見られ、「必要最小限度」とはどの程度をさすのか。自衛隊の装備ははたして「必要最小限度」なのかが問われるであろう。

 4月21日のBSプライムで、面白い対比をみた。第5代統合幕僚長であった河野克俊氏は、先制攻撃を一発は受けるといったのに対し、第37代東部方面総監であった磯部晃一氏は防衛システムがあるので、一発も受けないといっていた。もし受けるとしたら、その受ける「一発」はどれほどの大きさになるのか。両者の意見が一致していたのは内戦側が強いということであった。ウクライナのように防戦側の方が自分の土地を熟知しているので、ゲリラ戦にも強いということであった。しかし、この侵攻をこのまま「見殺し」にしてよいのだろうか。長期にわたる戦争を許してよいのか。破壊され尽くされるままの様子をずっと見ているのだろうか。結局アメリカ等が武器等をウクライナに供与し、代理戦争の様相さえ呈している。改めて、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」いる我々は、国連の機能不全を問題にし、どのようにしたら戦争を確実予防できるのか、戦争がよしんば始まっても長期にわたる戦争にならないようにはどのようにするのか、また核を持つ大国の暴挙をいかに止めさせるのか、核兵器をはじめとする非人道的兵器の保有をいかにやめさせるのか、さらに各国間の不平等の解消はどのようにしたらできるするのかを考えなければならない。

ところで1945年の国連憲章を通じて、今日では、「武力行使の禁止」が一般原則となった。その例外として許されるのは、自衛権の行使の場合と(国連憲章51条)と第7章の下でとられる軍事的強制措置の場合に限られる。しかし、冷戦により、国連軍は作られていない。以前は戦争には宣戦布告が必要とされていた。1012年に日本も批准していたハーグ第3条約にそのことが定められていた。日本はそれを守らずに真珠湾攻撃をした、とされている。なんらかの通告があれば、民間人には逃げる時間が確保されるかもしれない。しかし今、それが適用されないのは、「武力不行使が原則」だからである。また国連憲章2条3項では、すべての紛争を、平和的手段をもって解決すべきことが定められている。武力不行使原則と平和的解決原則は平和の維持における車の両輪ともいわれているものである。現在のロシアのウクライナ侵攻はこれらの原則を侵している。ロシアは強く非難され、裁かれるべきであろう。

 さらに長期にわたる紛争を許してはいない。長期にわたる紛争は多くの犠牲を生み、破壊、そして荒廃を招く。今日の国際法では、戦争を抑止し、おきてもその被害を最小化することが考えられている。それゆえ、交渉、仲介、審査、調停といった解決方法が探られる。国連憲章は、自主的な方法で解決できなかった紛争は、安全保障理事会に付託すべきとしている。付託を受けた安保理は「適当な調整の手続または方法」の勧告、あるいは適当な「解決条件」の勧告をする。その際法律的紛争は国際司法裁判所が担当する。こうした勧告が成立しないと、かわって総会がその紛争に対処する。総会での勧告は3分の2の多数によって成立する。この段階での安保理の役割は「勧告」にとどまるが、さらに事態が悪化したときには国連憲章第7章の「強制措置」の段階に進む。第7章には、「暫定措置」、「非軍事的措置」、「軍事的措置」が定められている(杉原高嶺『基本国際法』[第3版]有斐閣2018年298頁以下参照)。

ロシアのウクライナ侵攻は、いかなる理由をロシアがつけたとしても、明らかな武力行使であり、ロシアが主張する、個別的自衛権や集団的自衛権の行使には当たらない。核兵器の使用をちらつかせることも、禁じられている「武力による威嚇」に当たる。ところが上記の国連の安保理の勧告等の採択には5大国の拒否権が存在しているので、機能不全が指摘されるのである。そもそも、核を保有する5大国の一つである国が突然の隣国の主権国家へ侵攻することなど考えてもいなかったのである。その意味で、ロシアのウクライナ侵攻は国際法の根底を揺るがすものといえる。常任理事国が拒否権を発動すれば何も機能しない。常任理事国であるロシアが国連憲章の原則を踏みにじっているのである。そこで総会が決議を行った。4月2日にはロシアのウクライナ侵攻を非難する決議、24日には深刻化する人道危機をロシアによる敵対行為の悲惨な結果として遺憾の意を表明し、民間人保護を求める人道決議を採択している。この決議には法的拘束力がないもののロシアの責任を示すものであり、ロシアの孤立を浮き彫りにした。同時にこうした決議を通して、世界の「分断」も明らかになってきた。米欧を中心とするグループ、中露を中心とするグループ、そしてその他、に分かれてきている。何らかの理由で経済的な支援を中露に頼る新興国もいる。世界は新しいフェーズに入ったといえる。こうした分断解消の手立てを考えなければならない。

ここで米欧を中心とするグループは、日本もそうといえるが、少なくとも一定の価値観に基づいていることを考えておかなければならない。それは、民主主義(国民主権)、自由と人権の保障、個人の尊重、権力分立、法治主義(立憲主義)である。この価値観を守ること、浸透させることが重要である。

さらにロシアのウクライナ侵攻を許したことには、いくつのこれに似たような「小さなこと」を見逃してきたことがある。それゆえにロシアがウクライナ侵攻に踏み切ったともいえる。ロシアのクリミア侵攻やアメリカのイラク戦争などがそれに当たる。後者の場合は、アメリカは大量破壊兵器があることを口実にイラクに侵攻したが、結局はなかった。クリミア侵攻の時にはロシアはG8から外され、EUから経済制裁も受けたが、大きな制裁にはいたらなかった。ここからロシアは短期に掌握できれば大きな影響はないと踏んだのであろう。

 日本国憲法9条の実質化には国際的安定が欠かせない。歴史は戦争違法化から武力行使違法化へと進んできた。自衛権の行使も限定されている。さらに国際人道法も発達してきた。それゆえ、ロシアの行為に関しては、戦争犯罪として国際刑事裁判所が捜査を始めている。1968年には核兵器不拡散条約が成立し、さらに核兵器禁止条約が2021年に成立している。これは核と人類は共存できないことを明らかにしたものである。しかしこの条約に日本は批准していないし、締約国会議にオブザーバーとして参加もしていない。日本が平和に貢献できる役割を果たしていない。

国際的秩序をどのようにして取り戻すのか、そのことが今問われている。ロシアのウクライナ侵攻を契機として、核共有や敵基地攻撃力などが議論されているが、むしろ憲法の基本に立ち返り、憲法の基本を護る、民主主義や自由や権利を保障する、立憲主義を確実のものにする、そうしたことが求められている。世界の平和構築へのまさに日本の永久平和主義に沿った貢献が求められているのでる。

(マスコミ市民5月号のインタヴュー、社会新報5月号の拙文参照)

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