toggle
2018-03-03

「天皇制に向き合う視点は何か―終戦[1]の議論を参考として」(笹川紀勝 明治大学元教授、国際基督教大学名誉教授)

以下は、笹川紀勝さん(明治大学元教授、国際基督教大学名誉教授)​の2.11集会での講演記録です。ご本人の許可をいただいて掲載します。どうぞご高覧下さい。

 


 

「天皇制に向き合う視点は何か―終戦[1]の議論を参考として」 

                       於 静岡〔浜松〕[2] 2018年2月11日

笹川 紀勝

 

はじめに

 安倍政権は、今年1月の自民党の役員会によれば、憲法改正の方向に動き始めた。その中心課題は第9条の改正をするかどうか、新聞ラジオテレビによれば第9条第3項に自衛隊の存在を明記するようである。そして、同役員会は具体的な意見集約を経て3月25日の党大会に改正を提案するという。さらに、その改正には、緊急事態条項の創設も含めるという。自民党内では、石破議員が第9条第2項の戦力の不保持の規定を削除しなければ法的整合性はないと主張しているので、自民党としてまとまるかどうかははっきりしていない。公明党は様子見を決め込んで態度をはっきりさせていない。こうしてみると、憲法改正の動向は確定したものではないにしろ、その動きが具体的になりつつあることはたしかである。

 結果責任無視の安倍政権とそれに対する主権者国民

 ところで、アメリカのトランプ大統領は、中国とロシアそして北朝鮮を念頭において核態勢見直しの方針を打ち出し、核兵器を先制攻撃にも使用できるよう小型化を狙っている。世界には驚きと恐怖が一挙に伝わった。被爆国日本政府はアメリカの核の傘の下にあることを理由にしてかかる核兵器使用に反対の声をあげていない。世界には日本政府の態度に疑問の声が上がっている。

 実際トランプ大統領は、北朝鮮に戦争をさせようと躍起になって挑発している。米韓軍事演習はその実際である。そして、安倍首相は集団的安全保障と日米同盟の観点からその戦争瀬戸際行為に追随している。かえって北朝鮮が挑発に乗らずに自制し続けていて惨事が避けられている。戦争になれば、南北朝鮮の国民は何百万と犠牲になるに相違ない。日本も巻き込まれて犠牲者が出るかもしれない。一体アメリカにそうした殺戮の権利はあるだろうか。

 イラク戦争当時イラクには大量破壊兵器があるとアメリカは宣伝しイラクのフセイン政権を崩壊させたが遂にそのようなものは見つからなかった。アメリカによって侵略戦争が行われたことはたしかである。イギリスでは、2009年当時ブラウン首相の下にイラク戦争の正当性の根拠を検証するために設けられた委員会(長はチルコット卿)が、8年かけて調査し、戦争原因であった大量破壊兵器の存在を認めず、したがって戦争への加担の根拠はなかったと、2016年に260万字の報告書を公開した。イギリス兵士179名が死亡し、イラクでは15万人以上が死亡した。その死には世界が責任を負うべきである。

 では、日本はどのように検証してきたか。外務省は数頁の検証報告書を出した。また、安保法制審議の中で、安倍首相は「大量破壊兵器が存在しないことをみずから証明しなかったことが問題の核心」であるとなんどもいい、そして、「大量破壊兵器が確認できなかったことの事実については、厳粛に受けとめる必要がある」と言った。しかし、根拠のない情報に基づいて戦争行為に参加し沢山の人命を損なったことの責任への言及や反省の弁はまったくしなかった[3]。政治は結果責任であることがまったく認識されていない。私たちは意図ではなく結果を問わなければならない。たとえアメリカが主導する戦争であってもそれに加担する自衛隊の行動は日本の法体系で正当とされるかどうかと。この課題はイギリスの検証委員会が問うたところであった。そうすると、どんな理由で日本の権力は他国の人々の生命を奪うことが出来るかを問わなければならない。沢山の人命を奪った結果責任を忘れてはならない。その奪う原因になる疑問をもった米英側には疑問の根拠がなかった、それを丸のみした日本も同罪ではないか。

 すでに述べたように、イラク戦争参加の主体的な検証もなしに、しかもイラク戦争の根拠がなかったことが明らかになっても、今度また、日本政府はアメリカの主導する北朝鮮に対する戦争行為に参加する用意を示している。一体政府の行動には根拠があるのか。実は根拠はどうでもよく、日米同盟が政治的に優先するだけではないか。それなら、専制的帝国主義的な支配と同じで、政治的理由で沢山の人命を損なう、それでいいものだろうか。いいはずはない。

 日本の戦前の戦争行為によってアジアで2000万人が犠牲になった。かかる戦争を政府に二度とさせないと国民は憲法において誓ったはずであるが、冷戦を奇貨として保守政党はやがて自衛隊創設に向い、日本は今日世界有数の軍事力を保有する国家となってしまった。日本政府は、トランプ大統領の要請に応じてアメリカから高額の武器を購入する。防衛費は眼に見えて増え続ける。憲法改正を待つまでもなくまさに「破滅的軍拡主義」[4]が現れている。したがって、国民は戦争に向う政府の動きに警告を発しそれを止めなければならない。今日、戦争は現実問題である。では宣戦布告する法制度が日本国憲法のどこに書かれているだろうか。言うまでもなく宣戦布告の規定は戦争放棄の平和主義の憲法にはない。それゆえに、国民は主権者として戦争を放棄した平和主義の憲法を政府に護らせなければならない。だから国民主権あるいは人民主権を論じなければならないのである。

 不敬罪の歴史―思想良心信仰表現の自由を脅かす

 こうした恐るべき時代の転換に差しかかって、政治の動きに警鐘を鳴らしつつ同時に飲み込まれないように、ソフトだが、自己の視座をしっかりと構築したい。そこに本日の2.11集会の意図があると思う。しかも、注目したいことに、この集会は、思想良心の自由、信仰の自由、表現の自由、学問の自由を基本的に考える。この傾向は全国各地でかかる集会に見られる傾向である。それはなぜだろうか。戦前戦後の歴史にかかわるからである。すなわち、明治憲法下で、初代天皇といわれる神武天皇が日本の国を建てたのは2月11日と断定されて、1872年(明治5)に国家的祝日として紀元節がもうけられ、国民は奉祝動員された。しかし、1945年の敗戦によって紀元節はGHQによって廃止された。だが戦後の保守化の政治的運動によって紀元節は「建国記念の日」として言い換えられて復活した。制定には多くの国民が反対し、共産党社会党と一緒になって私の所属したキリスト教会の牧師が札幌市内の反対集会で講演をした、そのときのことを想い出す。

 建国記念日を根本的に考えたい。例えば、神武天皇が本当にこの日に日本国を建てたのか、また神武天皇自体歴史的に実在したのか。1945年敗戦前にはその種の疑問は学問的に検証することは許されなかった。許さなかった元凶は治安維持法である、と私たちは思いがちである。だがそう単純ではない。というのは治安維持法は1925年(大正14)に制定されたが、紀元節はそれ以前の1872(明治5)に制定されていたからである。

 では自由な研究を許さなかった抑圧の法はなにか。私は、思想や言論を制約した不敬罪に注目したい[5]。これは、明治維新を実現した薩長藩閥政府が、自由民権運動の天皇制批判を取り締まるために制定した刑法典(1880年(明治13)、第117-120条)にある。すなわち、そこでは天皇皇后皇族そして神宮皇陵に対する「不敬の所為」を処罰するとあった。「所為」とは「しわざ、振る舞い」である。そして、1907年(明治40)刑法改正で「不敬の行為」(刑法第74条)となった。さて、国語辞典では、「不敬」とは、「(皇室・社寺に対して)敬意を失すること」(『広辞苑』)とか、尊敬の念を持たず、礼儀にはずれること、また、そのさまである(『デジタル大辞泉』)、そして、明治憲法下では、とくに、君主である天皇等の名誉や尊厳を冒涜する行為であった。だが、意味としてはもっと広い。というのは、「冒涜」とは神聖なもの、清浄なものを侵し汚す行為、敬わないこと、敬意を示さず失礼な言動をすることなどと解説されるからである。したがって、不敬罪は、名誉棄損の一種として、明治憲法下で国民の思想言論を抑圧するのに猛威をふるった。例えば、押し入れにあった日記に不敬の記事があるとして書いた人が処罰された。要するに、外部のひとに知られるかどうかでなくその表現自体が問題であった。うっかり表現できなかったわけであるから漏らさないようにする結果人の内心の自由が踏みにじられた。

 また、不敬罪は、1945年8月15日の敗戦とともにGHQによって執行停止され1947年5月3日の新憲法の施行による刑法改正をもって廃止された。だが、廃止直前のメーデーの行進者の中に、食糧難を訴えて、「朕はたらふく食ってるぞ、汝人民飢えて死ね、ギョメイギョジ」と書いたプラカードを掲げる人がいた。その行進者は不敬罪に問われた。このプラカード事件は有名である。裁判では、無罪ではなく「免訴」となった。なぜ「免訴」か。「免訴」は、行為時の法に違反するが後にその法が廃止されたなどの事情から処罰しない、無罪か有罪かをいわないことである。しかし、かかる法は新憲法の下で違憲であるから、すでに新憲法が施行された後での裁判では免訴ではなく無罪とすべきだったという意見が今でも有力である。ここに天皇制にかかわって曖昧なものが新憲法下の裁判にもあるといわなければならない。

 ところで、考えてみると、不敬罪の起源は、すでにみた1872年(明治5)よりももっと古い。「不敬」の文字は8世紀の万葉集の解説に出てくる。天皇に捧げられた側近の女性(采女(ウネメ))と天皇の許しなく情を通じることは不敬の罪だと[6]。そうすると、天皇は神聖や清浄を独占することが見えてくる。しかし、同じ人間であるのに、なぜ天皇や皇族などは神聖や清浄といえるのか。今でも天皇と皇族の人気は絶大で、平成天皇皇后[7]が被災地の体育館を訪れ、同じフロアでひざまずいて被災者の安否を問うたことが人々に深い感銘を与えたと報道された。政治家が訪れてもそうしたことは報道されなかった。この違いはなぜ起きるのだろうか。

 自由民権と天皇制

 自由民権論者の中に共和制の思想を見つけることは難しい。中江兆民の名前は多くの人々に知られている。彼の都々逸といわれる「自首の主の字を解剖すれば王の頭に釘を打つ」は民主主義思想を表わすといわれる(家永三郎)。しかし、中江兆民の翻訳したルソーの『民約論』では、君主は否定されていない。執行権の担い手である。そして、兆民は、ルソーに傾倒していたというべきである。翻訳を出した位だからである。ところが、ルソーの『社会契約論』の中心思想は人民主権にあるのに、兆民は人民主権ではなくイギリスにならって「君民共治」を主張した。それはどうしてか。

 まず人民主権では人民が最高の権力を握っていてそれは法律すなわち一般意思(ヴォロンテ・ジェネラール)として現れる。その考えは直接民主主義、共和主義と解される。若干見ると、ルソーは人民の意思を一般意思として前提することによって、人民と異なる特殊意思を持つさまざまの団体(徒党、党派)を、人民と臣民(国民)との間にある中間団体(コール・アンティメディエール)というがその存在を認めない。ところが、一般意思を執行する政府をその種の団体の中に位置づけ、君主制もその一つとして肯定する。彼らは人民の主人ではなく公僕である。そこで、政府の行動の善し悪しは人民の定期集会で判断する、すなわち、主権者はこの政府を今後も保持したいか、人民は行政を任せた人々に今後もまかせたいかと。したがって、政府あるいは君主を認めたとしても人民が最高の主権者であることは貫かれる[8]

 兆民は、立憲の形をとった専制もあり共和で立君も政体としてあるから、「その名前に眩惑されるべきではない」というように、「名」をとるか「実」をとるかを提起して、ルソーの考えをとらないことを示す[9]。兆民の論稿によると、共和政治の字面はラテン語の「レスピュブリカー」の訳語である、「レス」は「物」であり、「ピュブリカ」は「公衆」である。だから、「レスピュブリカー」は「公衆の物」であり「公有物」の意味である。詳しく見てみよう。

 「だから、いやしくも政権を全国人民の公有物とし、ただ有司がほしいままにしないときは、みな『レスピュブリカー』である。みな共和政治だ。君主があろうとなかろうと問題ではない。そうだとすれば、いま共和政治を立てようと思うとき、名前を求めるのか、さもなければ実をとろうとするのであるか。……共和政治は本来、その名前に眩惑されるべきではない。もちろんのことだが、外面の形態にこだわるべきではない。

 イギリスの政治をみるがよい。名称も形態も、ともに厳然たる立君政治ではないか。しかし、その実態を考えるときは、少しも独裁専制であったためしがない。宰相は国王が指名するものだけれども、議会や世論の希望したもの以外からとることはできない。

 人民が政権を共有することがイギリスのようになることができれば、文句はないのではかろうか。」

こうして見ると、兆民は「全国人民の公有物」としての政権をいうのでルソーのいう人民主権をとらないことは明らかである。

 兆民の主張をイギリスの歴史の中において考えてみたい。彼は、イギリスに言及するとき、「宰相は国王が指名するものだけれども、議会や世論の希望したもの以外からとることはできない」といっている。これをイギリスの立憲君主政治の実際で見るなら、彼は18世紀の初めのロバート・ウオルポール(Robert Walpole)のことをいっている。なぜか。ウオルポールはトーリー党の総裁として総選挙で多数の議員を獲得できなかったので下院の支持を失った。そのために、彼は首相の座を降りた。この先例によって首相は下院の多数の支持をもって王から任命され、失えば辞任するか下院を解散するかという憲法政治が始まった。この慣習によって、ウオルポールは議院内閣制の端緒を示した。今日の日本国憲法の議院内閣制はその流れに属する。

 そうすると、兆民のいうところはかかる先例に当てはまるから、彼がイギリスの政治をみよというときの時代と状況はあきらかである。かかるイギリスの政治の実際が兆民のモデルになったのである。したがって、彼は、ウオルポールの登場した時代を取上げた。しかし、その時代がどうやって成立したかを述べてはいない。今日ではよく知られているように、17世紀の前半では君主専制がイギリス議会と国民に混乱を引き起こし、やがてピューリタン革命による共和制とそれを排除して王政復古がなされ、その後の名誉革命で君主主権と国民主権との妥協が成立した。ウオルポールの時代と議院内閣制はまさに国民主権と君主主権との妥協の産物であった。それゆえに、イギリスをモデルとするときには、兆民は闘争の結果だけを見ているといわなければならない。

 この点で、兆民が、アメリカやフランスのように「共和制で政治を行なうときは、わが君主をどこに置こうとするのか」という共和制を嫌うものの主張に対して「君主を置く場所」[10]を提供していることが見えてくる。

 大井憲太郎-自由民権左派として兆民と同じながら違うところ

 兆民の特徴を分析するために大井憲太郎の思想の若干を取り上げてみよう。

 1.大井は、無神論の兆民と異なりギリシャ正教の信者であった。彼が入信した時期について、根拠を示していないが幕末の長崎留学時代[11]とする平野説と、「明治12年」[12]とする福島説とがある。福島説に対して、平野が正しいとすれば、函館経由の正教ではなく、ロシア人船員の慰安所のあった長崎の「稲佐経由のそれによって入信した」という長縄説が登場してきた[13]。そして、長縄は、これまでの大井研究では、大井の自由民権運動と正教との内面的関係の分析はまだ行われていないと重要な指摘をしている。長縄は、大井の自由民権運動の革命のイメージと若い神学校生徒たちとの交流には「ちぐはぐな感じは否めない。なぜならばギリシャ正教会といえばカトリック以上の『反宗教改革』派であり、ロシアでは専制体制と結託した保守の牙城であったからだ。……明治の正教会も西洋の先進思想の一翼を担い、広汎で多層な民権運動のなかで何らかの位置を占めるべき類型的な役割を果たしたということは、考えうる」[14]とコメントしている。私は、正教会の性格をそのように保守の牙城のかかわりで見ることを否定はしないが、キリスト教思想によれば、大井が、政治状況における正教会ではなく、そこにおいて聞いたであろう、イエス・キリストの貧しき者虐げられし者へ示した共感から「政治的人権と社会問題へのなみなみならぬ関心」を抱いたことは十分考えられる。それゆえに、大井が生涯を通して狂おしいばかりに、「みじめな敗北に終始した」にもかかわらず、「日本の支配層がもちえなかった民主的な思想」を担ったといえるのではないであろうか[15]。もしそうであれば、そういう関心を抱いた大井を「高く評価したい。それこそ日本に平和主義を根ざさせる前提であった」[16]というコメントは私には理解しやすい。

 1922年(大正11)死去、神田駿河台ニコライ堂で葬儀。彼は家族を連れて「ニコライ堂」に毎日曜通った[17]。

 2.大井は弁護士であった。彼は板垣退助らの民選議院設立建白書(1874年(明治7))提出時から自由民権運動にかかわった。平野によるなら[18]、板垣らが建白書を提出したところ「いちばん脅威を感じたのは、藩閥政府の諸官僚であった。そこで、この藩閥政府の官僚を弁護するため異議をさしはさんだのが、ドイツ(プロシア)の絶対主義(開明的君主制)を日本にいれ込もうとしたドイツ学者、宮内省出仕の官にある加藤弘之であった」。その加藤は、板垣らに対して質問書を出した[19]。この中で、加藤は「人民知識未た開けすして先つ自由の権を得る時は、これを施行するの正道を知らすして、之か為に却て自暴自棄に陥り遂に国家の治安を傷害するの恐れあり。豈、懼れさる可けんや」といって民撰議院設立を時期尚早と断じた。そうしたところ、板垣らは加藤に答える書を出し次のようにいった[20]。

 〔A〕今議院を開設するも「遽(ニワ)かに人民其名代人(ミョウダイニン)を択(エラ)ふの権利を一般にせん」というのではなく、〔B〕「士族及ひ豪家の農商等をして姑(シバ)らく此の権利を保有し得せめん而巳。是の士族農商は即ち前日彼の首唱の義士維新の功臣を出せし者なり」。(〔A〕〔B〕は笹川の付加)

 この文章は、今日でも鳥尾小弥太の意見のままでいいかどうかの問題は別として、彼が民権説を「上下の二流」に仕分けしたことをよく示す[21]。彼は、上流の民権説をとなえる「士族及び豪家の農商」と下流の民権説をとなえる「人民」を区別し対比した。平野は板垣らを前者に位置付け、大井憲太郎を後者に位置づけた[22]。平野によれば、その「人民」に関する大井の認識は興味深い。

 すなわち、大井は「あくまで国民全般の自主性と政治干与権」を人民にあると主張している。二つある。

 一つには、人民は「国事に与(クミ)する権利」を有し、政府は保護する義務を有する。すなわち、大井が「議院を開て以て人民の国事に与(クミ)するの権利あるを知らしめ……自主の心敢為(カンイ)の気を振起せしむ可し」[23]。「政府たりと雖(イエド)も猥(ミダリ)に之を屈撓(クットウ)せらるる理なく政府は人〔民の〕自主の権利を保護す可き義務あり」[24]。(敢為=思い切って行うこと、屈撓=まがる、かがみたわむ)

 二つには、板垣の「租税を払ふの義務ある者は、即ち其政府の事を予知可否するの権利を有す」という主張は、「士族ならびに相当納税者のみの制限選挙制に結びつく」だけでなく、「納税を為しえない大多数無産人民は固より、2百以下の納税農民に対してすら被選挙権を認めない」ことになる[25]。

 この二つを前提とする「人民」とは、本来自主性をもち国政に関与する権利を有しながら、納税額による制限選挙によって政治的権利を行使し得ない存在である。そうすると、下流の民権論は人民の政治的権利を発揮させる民主主義と結びつくはずである。結びついた結果、人民は主権者になりうるのか。中江兆民はかかる主権者として人民を後押すことはしなかった。では大井はすることになるのか。か。                                                       3.大井の『自由略論』上下[26]は、後述する大阪事件で実刑6年の判決を受けて入獄中に執筆し1889年(明治22)3-4月に刊行された。明治憲法発布の大赦で出獄した(同年2月14日)。この本では、「世人多くは外部の自由を重んじて、内部の自由(即心霊の自由)を軽んず」(404頁)るが、「天賦固有の性」(421頁)である「心霊の自由(一名本心の自由)」の「心霊」とはフランス語では「エスプリイ」、英語では「スピリット」である。この心霊の自由は、「人は善に悪に其所欲を行ふを得べき一能力(即ち自由)」をいい、その地の事情(例:圧政)に向って変化するところに「思想の自由」がある(421-422頁)。もっとも賞美すべく、政治上の自由に譲らない(403頁)。かかる「心霊の自由」に生きる人の強烈な姿を次の文章にみる。

 社会には「自由平等の真理を執りて、百折不撓千挫不屈、終始社会の改良を以て自任し、身を桎梏(シッコク)下に入るも敢て辞せず、絞機の上に置くも敢て避けず、死を以て自ら失ひたる有志其人乏からず」(407頁)。

 大井は自分をこのような一人と認めていたに違いない。その「心霊」を支えるものをキリスト教に見ていた。すなわち、

 キリスト教について「俗眼の見る所に依れば、大に自由を害するに似たり。然れども其実は大に自由の精神を修養錬磨し、大に自由をたすくるものなり。人は我心に於て吾自から主たらざる可からず」(417、422頁)。

 このような「自由の効力」(423頁)が政治上では自由政体すなわち代議体政となるときは、政権よろしきを得「国利民福を増進」する。自由平等から奴隷解放、自由貿易、宗教の自由、マグナカルタ、北米13州独立、「君民同治」が生まれる。過激になるとバスチーユの破獄となる(424頁)。自由政府では専制政府の下での偏護の保護商なく、「租税の額を定むるは人民の特権に帰し、国会に於て之を議定すればなり。」自由政体では帝室独裁はなく、「与論常に之を翼賛……官民一体」となる(425、429頁)。「国既に帝室あり」。「民議を取りて補翼と為」すことが「皇祚長久国家安全の基なり。……自由政体なるときは、帝室安固なり」。「政治自由なるときは、則ち社会各人其国を愛するの情ありて、其国に力を尽〔す〕」。「君民同治(即自由政)」を採るべきである(434、469頁)。

 この文章は、大井が「君民共治」をいう中江兆民と同一線上にあることを示す。両者ともに君主制を容認する。その根拠は、現に存在するということにあり、神武天皇等の話に依拠するものではない。

 ところで、大井は、負担は貧富共に平等ではなく「常に貧民社会に偏重」すると認識している(449頁)[27]。すなわち、社会の景況をみると「文化従て進で貧民従て困苦する」、「社会の大患、人民の不幸、此より大なるは莫(ナ)し」(449頁)。「社会上流の人士、曾(カッ)て心を社会改良に用ひず、旧慣に之れ安じ、以て政治の法を講ずる事を為さず」(450頁)。

 4.大井は、自由民権運動が激化した中でもその左派の指導者として東奔西走する日を過ごした。その頃朝鮮改革のクーデターに失敗して金玉均が日本に亡命してきた(1884)。政府と福沢諭吉は当初は金玉均を支援したがやがて支援しなくなった。大井は一貫して支援し、1885年朝鮮改革の密議をこらし、磯山清兵衛が韓国政府の事大党を倒す実行首領となり20数名の志士を率いて渡韓する計画を立て、大井らは資金調達に当たり、事件決行後に我国改革(明治政府の顛覆)をはかることとした。これがばれて、一同58名が逮捕された。これが大阪事件である。この静岡では1886年政府顛覆未遂事件が起き、関係者逮捕された。弾圧されても弾圧されてもその中から自由民権運動に参加するものがいた。大阪重罪裁判所は、主犯大井憲太郎を外患罪で軽禁獄6年に処したが、それを争って大審院に上告したところ却って重懲役9年が言い渡された。しかし明治憲法発布による大赦で大井らは釈放された。

 平野はこの裁判の本質を、金玉均を助けて朝鮮の政治改革を実行して、その独立を援助する朝鮮改革にある(外患罪)のではなく、日本専制政府に痛手を与えて「どんでんがえしに」日本の政治改革をめざすものであった、それゆえに、自由民権の正義を貫こうとしたところにあるという[28]。しかし、この事件の評価をめぐって歴史学界では意見が割れている。中塚明は、大阪事件の関係者の言動を分析して、渡韓して事大党の主要人物を倒し改革をはかろうとする計画性と組織性の曖昧さ、また日本国内の政府を倒すことの方法の不明確さを観念的であると鋭く指摘して、平野の大井研究を批判する[29]。いちいちもっともに思われる。

 ただ気になることはある。その一つは、中塚が言及しているように、政府が徹底的に自由民権の諸運動を弾圧して、「言論や、集会を封殺する専制政府の攻撃」[30]によって、民主主義運動の担い手に有効な展望を持たせなかったことである。私は、そうした閉塞状況のなかで何を、どこから行うかを問いたい。その点で、大井が「心霊の自由」に着目したことには本質的な意義がある。彼は決して「心」を専制政府に開け渡さなかった。たとえ敗れながらでもその「心」の視角から人民と権力を見続けたと思う。

 もう一つは、大井が朝鮮人を「兄弟」と呼んで朝鮮の改革を、主観的だが、実行しようとしたことである。第一審裁判所における大井の弁論に次のような主張がある[31]。

 「世人怪訝の念を懐き同情相憐み艱難相救ふといふが如きは国を異にするを以て断じてなきものと思ふ者もある」が、それは「考えの粗なるより来るものなり。彼の宗教家の海川に依りて国を劃せず四海中皆兄弟とするが如く、我より老いたるものは父なり、又母なり。若きものは弟なり又妹なり。即ち朝鮮人も亦た父母兄弟なり。彼れ日本を助くれば日本人も亦彼を助くるの感想を起すなるべし。故に、国を異にするが故に、同情相憐み相救ふの感を起すは決して怪訝すべきに非らずして此感念を起さざる者こそ、我々却て之を怪しむなれ。……我々は此に至て之を助くるの念を生じたるものなり。」

 この「兄弟」論は、憲法論として構成するなら、日本国内と日本国外とで同じ法原則を適応しようとする国際協調主義になる。つまり、国内で立憲主義を、国外でも立憲主義を。吉野作造でさえそうであったように明治期の前半だけでなく大正デモクラシーの時期でも、内は立憲主義、外は帝国主義という二元論が普通であったから、明治期の前半の大井の「兄弟」論は注目されてしかるべきである[32]。問題は、今日でもそういう一元論を貫けるかどうかである。日本国内で無軍備平和主義、日本国外でも無軍備平和主義を貫けるか。安倍政権は、東北アジアの防衛問題では二元論に立っているようで、いや今まさに憲法改正問題では、内は国防軍を、外は戦争をという一元論を狙っているように見える。それゆえに、「兄弟」論は、明治期以来の歴史的課題を明らかに提示しているのである。

 天皇制に向き合うものは何か

 そろそろ本題に即したい。明治期においてだけでなく、終戦時においても天皇制は否定されなかった。そこで考えてみたい。

 中江兆民と大井憲太郎は、君主制を認めた。大正デモクラシーの時代の吉野作造や美濃部達吉もそうであった。彼らは、美濃部達吉がそうであったように、大臣や議会による輔弼によって天皇制を君民共治もしくは君民同治の実現へ導こうとした。したがって、「人民の人民による人民のための政治」(government of the people, by the people, for the people) の「人民による人民のための政治」を実現しようとしたが、「人民の」政治を棚上げにした。吉野はそれを民本主義といってデモクラシーと区別した。「人民の」政治とは、人民が主権者を意味する政治である。

 そのように、下流の民権論は、藩閥官僚政府の有司専制を攻撃しても天皇制への批判を避けるしかなかった。そして、有司専制の政府は、自由民権運動や自由な言論を取り締まるために、刑法を改正して不敬罪を規定し、さらに名誉棄損を処罰する、要するに自由民権運動がなす政府批判を取り締まる讒謗律(ザンボウリツ)(1875年(明治7):讒、謗=そしること)、出版条例(1869年)、出版法(1890年)、新聞紙条例(1875年)などを制定した。そして、治安維持法(1925年)を制定した。太平洋戦争下では流言飛語罪・造言飛語罪が陸海軍刑法に規定された。軍機保護法(1899年)もあった。したがって、天皇制を批判的に取り上げることはこれらの法に抵触する恐れがあった。ところで、共産党の32年テーゼの天皇制に関する分析は当たっている。天皇制は、戦前最大の寄生的地主階級とブルジョアジーと官僚(警察を含む)に基づきながら無制限の権力をその掌中に維持した「国内の政治的反動といっさいの封建制の残滓の主要支柱」であった[33]。したがって、それは、天皇の個人的人格よりも「制度」としての天皇の分析をした。まさに天皇「制」を取上げた。そうすると、天皇に関することは、支配的権力が実体化していたといわざるを得ない。しかし、完全に天皇が制度の枠内に置かれていたというのは誤解である。天皇自身が自らを主張するいくつかの場面は例外的にあった。2.26事件で昭和天皇は激怒して自ら鎮圧に出動すると言った、終戦の「聖断」は有名である。

 ところで、幕末討幕派は天皇を「玉」と呼んで、そこには「玉を我が方へ奉抱候」という考えがあった[34]。「玉」が敵に奪われては、芝居は大崩れになるから、「玉」を自分の方に抱きかかえるべきである、「玉」の意向とは関係なく自分が抱えるか敵が抱えるかで政治的事情が全く変わってしまう。そのように、「玉」には、尊敬のきわまったものがあると意識されている同時に自分たちの営為のために利用できるものがあるという二面性が討幕派には認識されている。そうすると、まさに32年テーゼがいう「主要支柱」を握っているものが「玉」を動かせる。それであれば、中核的な「玉」=天皇を批判することは支配的政治体制への挑戦となる。当然弾圧される。したがって、中江・大井・吉野・美濃部と一群の人々、もちろん一般国民も抑制できる、天皇への批判を許さない支配勢力とそれを担保する法制度があったという事実である。その結果、大阪事件に関連してすでに述べたように、民主主義的運動による「人民の」政治の実現が抑止されたのである。それゆえに、秩父事件、加波山事件等々自由民権の激化事件はことごとく弾圧された。やがて、軍部の台頭によっていっそう「人民の」政治の実現は遠のいた。

 興味深いことに、そして、まだほとんど研究されていないが、植民地であった朝鮮における不敬罪関係の判決をみていて気付いたことがある。それは、人民の生活の真ん中まで不敬罪が入り込んでいたことである。飲み屋で語ったことが不敬罪や陸海軍刑法の流言飛語罪で有罪になっている事例が沢山出てくる。そして、いくら住民を抑止しても次から次へと不敬の言動が出てきたということである[35]。

 では、かかる抑圧のもとで、天皇制を批判変革するものはどこから来るかと考えざるを得ない。それが「終戦」にあった。

 結び―終戦時の議論

 1.GHQが日本国憲法の草案を作成し、それをもとにして日本政府による憲法改正草案要綱が作成され、日本国憲法草案がいわゆる憲法制定議会に提出された。この間の経緯はすでに良く知られている。GHQがかかわっていることからアメリカの影響が日本国憲法には色濃く反映されている。そのために、日本国憲法という国の形は東北アジア諸国との関係でも作られていることはあまり関心の的になっていない。しかし、日本国憲法の前提をなすポツダム宣言第8項にはこうある。「カイロ宣言の条項は、履行せらるべく、又日本国の主権は、本州、北海道、九州及四国並に吾等の決定する諸小島に局限せらるべし。」つまり、カイロ宣言は①第1次世界戦争以後日本が奪取占領した太平洋のすべての島を日本からはく奪する、②満州、台湾、澎湖島を中華民国に返還するといい、③「朝鮮の人民の奴隷状態」 (the enslavement of the people of Korea)を留意して日本からの自由独立を決意する。そこで日本の主権の及ぶ範囲を縮小した。言い換えるなら、かっての日本の植民地と国際連盟からの信託統治領はすべて日本からなくなった。したがって、主権の及ぶ範囲は縮小された。その結果、朝鮮を始め中国は戦後の国家の形を作り、他方日本は国家の形を作りを制約された。言い換えるなら日本の植民地支配の戦後清算は終戦によって行われたのであって日本の主体的行為によってなされたのではない。そのために、かっての植民地であった国と日本の間には歴史認識に関して問題がかなりたびたび起きている。こういう戦後日本の国家の形を東北アジアとのかかわりで考える契機を具体的に提供したのは、1941年8月ドイツのUボートを避けて密かに大西洋のどこかイギリス戦艦の上でルーズベルト大統領と大西洋憲章の合意を作ったチャーチル首相らしい[36]。それだから、日本国憲法の平和主義は、憲法第9条の戦争放棄とともに、東北アジア諸国との関係を視野に入れた憲法前文第3段の国際協調主義を通して具体化される。その第3段は次のようである。

 「われらは、いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。」

 2.国民主権に眼をとめてみよう。

 連合国と日本政府の間でポツダム宣言の受諾をめぐって熾烈な交渉があったことはここで繰り返す必要はない。そして、ポツダム宣言の起草はアメリカのトルーマン大統領とその官邸の高官を中心に作成され、しかも日本側は受諾に際し天皇制の擁護、国体護持にあったこともたこともここでは立ち入らない。それよりも、どうして日本国憲法のなかに国民主権が入ったのかを考えたい。すでに述べたように、明治時代前半から大正デモクラシーまで国民主権をいうことは明治憲法の天皇主権、君主主権と抵触する恐れがあると思われ、すでに触れたように人は口に出せなかったからである。

 (1)まず、1946年2月1日毎日新聞における、明治憲法の手直しのような憲法改正案である松本憲法試案のスクープが人々を驚かせた。折しもGHQの憲法改正を担当するホイットニーのもとで、1946年2月4日にGHQ民政局の会合があった[37]。彼は次のようにいった。

 「新しい憲法を起草するに当たっては、主権を完全に国民の手に与えるということを強調すべきである。天皇の役割は、社交的君主の役割のみとさるべきである。」

 国民主権/人民主権が日本国憲法の構成原理として登場するのはこの2月4日からと思う。GHQが明確に天皇の統治大権に基く松本案を排除して国民主権の選択をした。そのために、統治大権と国民主権とは憲法原理として両立しない。この変化をまだ日本国民は知らない。天皇の統治大権に基く松本案を知ったことがGHQの変化のきっかけではないか。では日本側の対応はどうなるだろうか。

 (2)GHQによる憲法草案が日本政府に伝えられたのは1946年2月13日。

 ところで、憲法学者宮沢俊義は次のように回顧している。

 「マカサア草案の存在を、政府の草案が発表される直前に知った。おそらく3月のはじめであり、どう早くても2月末のこと」で、「英語のテクストをほんの1分ほど手にしただけで、それをていねいに読む時間はもたなかった。その中味で気がついたのは、第1条の国民主権の規定だけだった。そして、その規定を見て閣僚たちがあわてていることを知った」[38]。

 宮沢がマッカーサー草案を知った日から直近の論文は「八月革命と国民主権主義」[39]である。この論文で宮沢は、リンカンの言葉にある「人民の政治」と「人民による、人民のための政治」との関連を日本のデモクラシーの議論のなかに入れて分析した。そして、政府の憲法改正草案が「人民の政治」としての国民主権を取っているという。今一度言うならこういうことである。吉野作造らが、民主化をいうときには、「人民による、人民のための政治」が課題になっていた。そして、天皇制に抗するときには、「人民の政治」が意識されていたということである。宮沢でいうなら、宮沢は、「人民の政治」(人民主権)と「天皇の政治」(君主主権)との間には根本的に建前の相違があることを知っている。それだから、その相違を憲法に規定するなら、それは、「ひとつの革命」「八月革命」になると彼は言う。

 3.ところで、八月革命説を唱えた論文の中で宮沢はこういっていることに引っかかる。すなわち、在来の日本の政治の根本建前として「天皇は神の御裔として、またご自身現御神として日本を統治し給ふのだとせられてゐた。」「君民一体とも、君民同治ともしばしばいはれた。(もっともこの過去数年間はさういふ表現を用ゐるときっと反国体的といふので叱られるのが例であった)。」そういう社会的な雰囲気の中では、神権天皇に対するものとして国民主権をいう言論の自由はなかっただろう。

 そのために、戦後の11・12月に共産党は人民主権、憲法研究会などが国民主権をいうのは例外であった。GHQが1946年2月13日の憲法草案で国民主権をいった後で、しかも「8・15」から半年後に、「一種のタブー」が外れてから[40]、宮沢・美濃部でさえ国民主権をくちしたのではないか。

 今日国民主権/人民主権を口に出しても誰も恐怖を覚えることはない。それだけ国民主権/人民主権は一般国民に定着したのである。しかし、それは、天皇主権のタブーが外れたからである。しかも日本国民/人民がそのタブーを破ったからではなく、GHQが占領軍の力でタブーを破ったからである。そして、国民/人民が自らの主権によって物事を決定する憲法があるのだから、今度は国民/人民が自ら憲法の存在を擁護し中身を実現しなければならない。他にそうしてくれる人はいないからである。天皇から国民/人民に主権が転換したことは、まさに終戦によってつまり沢山の人々の命のあがないによってもたらされた。この犠牲の歴史的事実を忘れてよいものだろうか。そういう犠牲の上に生まれた日本国憲法を認めたくない人々、安倍政権が戦争できるように憲法改正を狙っていることは恐ろしい歴史の忘却でありそれは阻止しなければならない。これは、終戦によって生まれた国民主権/人民主権の将来に対する新たな歴史的課題である。

 [1] 日本語の「終戦」の言葉は、『終戦史録』外務省編纂、新聞月鑑社1952年に基づく。『終戦史録』によれば、「終戦」は「開戦」と対をなす(『史録』序1頁)。そして、東郷外相は開戦に際し「五六年以上存続は不可能」とみて、早期の「有利なる立場で戦争を終結しなければならない」と考えたが、他方東条首相及び軍部首脳は「長期不敗体制の確立可能」と「強引に統制」したという(同23頁)。東郷と東条のこの相違は、御前会議においてポツダム宣言受諾を主張する「終戦派」(東郷外務大臣、米内海軍大臣、平沼枢密院議長)(同580頁)と「我が戦力をもってして戦争は必勝を期する能わずとするも……玉砕を期して……死中に活を求め得べし」とし、「本土決戦」を主張する「戦争継続派」(阿南陸相、梅津参謀総長、豊田軍令部総長)(同610、612頁)の対立となって現れた。昭和天皇は、「これ以上戦争を続けても無辜の国民を苦しめるに忍びないから速に戦争を終結せしめたい」、軍の「必勝の算あり」は「信じ難し」として、外務大臣案に賛成する「聖断」によって受諾が決まった(同586-587頁)。そのように、「終戦」と無謀な「戦争継続」とは概念として明確な対立の関係にある。「対立」の質がどうであったかとは別に、「終戦」の語には対立の緊張関係を含意するものがあると考えて私は「終戦」の語を使う。話の中では敗戦も使う。

なお、「終戦」は「戦争を終結」の簡略な言い換えに思われるがその「戦争を終結」の言葉自体は、外務省訳であるポツダム宣言第1項の「日本国に対し今次の戦争を終結する機会を与える」に由来する。ただ下線部の該当の英文箇所はan opportunity to end this warとあり、endは「無理にやめさせる」を意味するが必ずしも「敗戦」defeatを意味しない。しかし、宣言の末の第13項には「全日本国軍隊の無条件降伏」を宣言するとあるから、「戦争〔の〕終結」は「降伏」を意味し、したがって宣言受諾は「敗戦」を間違いなく意味する。「降伏文書」の調印の結果日本は連合軍によって占領され、日本の「降伏」が法的に確定した。

ところが、冷戦の激化による日本の右傾化の中で、降伏は無条件ではなく有条件であったと主張する学者や政治家が現れ、「降伏」を認めず、「終戦」を主張する(参照:江藤淳編『終戦を問い直す―「終戦史録」別巻・シンポジウム』北洋社1980年)。彼らの「終戦」は戦争継続派を引き継ぐものといわざるを得ない。そうであれば彼らは、東北アジア諸国の戦死者を始め広島長崎の原爆と都市爆撃によって沢山の死者を産み出した戦争を止めさせた「終戦」の理解を著しく変えようとしたのである。そして、周知のように、鳩山一郎を総裁として憲法改正を党是とする自由民主党が生まれた。私は、憲法改正の意図を持つ論者は、戦争犠牲者を無視する恐るべき歴史観を抱えていることと、安倍首相が日本会議を通してこうした戦争継続派の影響を強く受けていることを指摘しておきたい。

 [2] 「〔〕」は講演後の若干の補足を示す。

 [3] 第185国会衆議院本会議2013年10月25日の赤嶺議員の質問に対する安倍首相答弁。その他第189国会衆議院特別委員会2015年5月28日の志位委員に対する安倍首相答弁。

 [4] 深瀬忠一「札幌を源流とする立憲民主平和主義」『独立教報』、札幌独立教会、5、7頁は、日本国憲法の「平和的生存権」を「核・地球時代の立憲民主平和主義」と捉える。

 [5] 宮本顕治『天皇制批判について』新日本出版社、1987年125頁は、「天皇制支配の武器―不敬罪について―」のなかで、「不敬罪は治安維持法とならんで、絶対主義的天皇制の野蛮な支配のための有力な武器」であったといい、「歴代の天皇にたいしてもこの悪法が適用されたため、史実をまじめに探求しようとした歴史家は、この法律によって迫害された。そして嘘にみちた官許歴史だけが人民の頭に教えこまれてきた」(128頁)と指摘している。

 [6] 「不敬」『日本国語大辞典』第2版、第13巻、小学館2001年、802頁。参照:インターネットで万葉集にある言葉「於時勅断不敬之罪」を検索できる。〔後記〕「不敬」:諸橋轍次『大漢和辞典』第1巻242頁。「大不敬」同、第3巻460頁。なお、渡辺治「天皇制国家秩序の歴史的研究序説〕東京大学社会科学研究所『社会科学研究』30巻5号、1979年157頁参照。

 [7] 〔後記〕日本の朝鮮植民地時代に、雑談中に「怖多くも/今上天皇陛下を称し奉るに昭和の年号を以てし」たのは「不敬罪」に当たるとして懲役10月を科した判決(李址鉉事件・朝鮮総督府・大邱地方法院昭和14年12月18日判決)がある。したがって、存命中である天皇を「昭和天皇」と言うのは不敬罪の対象であったことを忘れてはならない。

 [8] ルソー『社会契約論』桑原・前川訳、岩波書店1963/1954年、46-46、101-102、142頁。

 [9] 中江兆民「君民共治の説」『東洋新聞』1881年(明治14):所収『中江兆民』責任編集河野健二、『日本の名著』36、中央公論社1984年70-72頁。

 [10] 中江、前掲71頁。

 [11] 平野義太郎『大井憲太郎』吉川弘文館人物叢書、1988年8-9頁。

 [12] 福島新吾「『馬城大井憲太郎伝』解題(附)伝記資料の補足」:平野義太郎・福島新吾編著『大井憲太郎の研究』馬城大井憲太郎伝別冊、風媒社、1968年24頁は、ニコライ師によってキリスト教に入信したという。福島は、明治4、5年頃には長崎にはロシア正教会はなかったはずという(86頁)。

 [13] 長縄光男『ニコライ堂の人々―日本近代史のなかのロシア正教会』現代企画室、1989年72-76頁。幕府は、プチャーチンの来航に際し長崎の漁村稲佐を上陸地に指定した。稲佐がロシア人船員の休息地となった。病死した船員の墓地がそこにありまたそこに正教会がある。インターネットでは稲佐におけるロシア人との交流の様子が詳しく見られる。そのために、福島とは異なる平野説の成立つ余地が生まれてきた。

 [14] 長縄、前出、74頁。

 [15] 福島、前出、28頁。

 [16] 同上。

 [17] 同上、86頁。同頁には「長崎にはロシア正教はなかったはず」とあるが、長縄の指摘する「稲佐」には実際にロシア正教会があったから平野が指摘する大井の入信時期は正しいかもしれない。

 [18] 平野義太郎『大井憲太郎』吉川弘文館、46頁。

 [19] 平野、前掲、33以下、38頁。

 [20] 平野義太郎編著『馬城大井憲太郎伝』大井憲太郎伝編纂部、1938年44頁。

 [21] 鳥尾小弥太「国勢因果論」、所収吉野作造編『明治文化全集』第9巻正史篇上所収、日本評論社、1927年239頁。

 [22] 平野『大井憲太郎』吉川弘文館、1988年50頁。

 [23] 平野『馬城大井憲太郎伝』、50頁。

 [24] 平野、前出、57頁。

 [25] 平野、前出、59、60頁。

 [26] 所収平野『馬城大井憲太郎伝』、397頁以下。

 [27]『時事要論』1886年(所収平野『馬城大井憲太郎伝』、357頁以下)は大井が『自由略論』と同じく獄中で執筆したものである。この『要論』は、まさに時代のなかで「貧者は倍貧に、富者は愈富みて、貧富の懸隔漸く甚し」(361頁)という。そして、農民のために「土地平分法」を論じ、農民の資産の不同にかかわらず「貧富同一に徴征す」、欧州各国と異なり「我国費は専ら地税にのみ之を頼る」(387頁)と叫ぶ。

 [28] 平野『大井憲太郎』吉川弘文館、前出、153頁。

 [29] 中塚明「自由民権運動と朝鮮問題―とくに大阪事件について―」研究紀要(奈良女子大学文学部附属中学校・高等学校)1959年。Vol. 2. pp.1-17.

 [30] 中塚、13頁。

 [31] 平野『馬城大井憲太郎伝』、149-150頁。なお、平野『大井憲太郎』吉川弘文館、192、196-197頁。

 [32] 〔後記〕講演では、大井の兄弟論は日鮮同祖論と同じではないかという意見が参加者から出された。私は、日鮮同祖論は日本と朝鮮の関係でいうが、大井の兄弟論は「宗教家の海川に依りて国を劃せず四海中皆兄弟とする」ものに思えて、日鮮同祖論とは異なるように考える。そして、大井がギリシャ正教の信者であればロシア人を知っているので彼の兄弟論はロシア人をも含む日鮮を超えた広がりをもつのではないかと考える。また、大井が、日清戦争のように日本国家の対外戦争へ向う国権主義に利用される側面をもったという指摘もされた。私は、その指摘と同じ考えであるが、それだけでなく、その利用される側面とそこに至らないものの側面の二面をみているようである。というのは、後者の側面として大阪事件後の服役中に書いた『自由略論』における「心霊の自由」の視点をみるからである。残念ながら、大井はその自由論の展開を十分なすことなく生を終えたように思う。平野もまた論じていない。しかし、私は、ここに戦後の憲法における国民主権論へつながる思想の源基のひとつをみる思いをもっている。今後の研究課題であろう。〔後記〕柳田泉「素描・大井憲太郎」『東大陸』15巻4号、1937年116頁は「政治改革の根底に宗教を置かう」とする大井に注目している。

 [33] 『日本共産党綱領文献集』日本共産党中央委員会出版局、1998/1996年102頁。伊豆公夫『天皇制について』日本共産党出版部、1946年3月4頁は後に出てくるプラカード事件を先取りして次のようにいっている。「これまで天皇制が、かれらによって守りたてられてきたことから、われわれ人民はどんな利益をえてきたか、労働者の生活は、天皇制のおかげで、これっぱかしもよくなったであらうか。農民は、天皇制のもとで、自分の作った米を腹いっぱい食ふことができたであろうか。……それどころか、われわれ人民は、天皇制のあるために食ふや食はずの生活をすることを強いられてきたのだ。」

 [34] 笹川紀勝『自由と天皇制』弘文堂、1995年80-82頁。

 [35] 参照:警務課『昭和8年不敬犯罪綴』。これは貴重な史料である。また、韓国国家報勲処は、日本の植民地時代の刑事判決6607件を近年インターネットで公開したが、その全体を概観できるような判決の整理がまだ日韓共に学問的には行われていない。回覧の一覧表のコピーは整理の見本に過ぎない。不敬罪、治安維持法などの日韓の比較研究は必須に思われる。治安維持法の判決は日本以上にあるようであり、刑罰は日本以上に重い。

 [36] W. Arnold-Foster, Charters of the Peace, A Commentary on the Atlantic Charter and the Declarations of Moscow, Cairo and Teheran, 1944, London参照。

 [37] 高柳他、憲法成立史参照。

 [38] 宮沢「はしがき」『憲法と天皇』東大出版会、1969年2頁。

 [39] 宮沢「八月革命と国民主権主義」『世界文化』1946年5月号68頁。

 [40] 鵜飼信成「主権概念の歴史的考察と我が国最近の主権論」『新憲法と主権』憲法研究会編、1947年56頁。なお、鵜飼「佐々木惣一博士『日本国憲法論』について」『季刊法律学』第8号、1950年6月号、141頁以下は、宮沢の八月革命説を批判する佐々木惣一のポツダム宣言にある「国民」people理解が国体論に基づいていることを鋭く指摘して反批判している。

 

タグ:
関連記事