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2022-05-01

虚構の改憲論 VS 日本国憲法の哲学 ――ウクライナ侵略を奇貨とした改憲論の虚構性――

 長峯 信彦(愛知大学法学部教授)

1. 凄惨なウクライナ侵攻と「平和のうちに生存する権利」 

  ロシアによるウクライナヘの軍事侵略は悪辣極まる蛮行であり、許されざる暴挙だ。大統領プーチンはいずれ、戦争犯罪人として公けの裁きの場に必ず引き出されるべきである。

  戦争では必ず人間が殺される。当然のことだが、戦争はどんな名分を掲げても、所詮は人殺しである。市民への不条理な攻撃は激化し、丸腰の市民に対する非人道的殺戮は凄惨の極みに達している。首都キエフ近郊では900人以上の集団虐殺が判明しており(22. 4.17)、絶対に許されない。単に「戦場の狂気」では語れないほどの酷たらしさに、世界中の心が締めつけられている。全てプーチンによる戦争犯罪(大量虐殺=ジェノサイド)と言えよう。無慈悲な空爆・砲撃により非武装のウクライナの民は少なくとも数千人が殺されており、マリウポリなど東南部は壊滅、廃墟と化した。地獄の惨状だ。これらの光景を観るにつけ、日本国憲法前文の「平和のうちに生存する権利(平和的生存権)」が、あらためて深い響きを以て、私たちの胸に突き刺さる。 

2. アメリカの「不作為」――その打算とズルさ 

  今回の侵略と虐殺は、いかなる理由を以てしても正当化され得ない。ただ、ロシアの側にも多少の理屈はある。ソ連崩壊後の30年間、NATO(主軸は米国) はどんどん東方に拡大していった。もし今後ウクライナがNATO入りしてミサイルを設置すれば、モスクワまで8分で届いてしまう。ロシアにすれば、喉元に刃を突きつけられるわけで、かつてアメリカが経験したキューバ危機と同じだ。ただ違うのは、ウクライナはまだNATO入りもしていないし、ましてミサイルは準備すらされていないという点だ。

  つまりロシアの不安はすこぶる被害妄想的である。ただアメリカの歴代政権はこの不安にきちんと向き合ってきただろうか。答えはノーだ。米国は常に「東欧諸国(ポーランド等)が希望したからNATOに入れただけ」との他人事スタンスにて、都合よく軍事権益を東方に拡大してきた。ロシアは侵攻前の2021年12月アメリカに対し「NATOの東方不拡大」確約をあらためて要求したが、米側は冷淡なゼロ回答をした。こういったアメリカの傍観者的「不作為」という経緯も忘れてはなるまい。 

 もちろん、だからと言って侵略や虐殺は絶対に正当化され得ない。重要なことは、NATO (特にアメリカ)が事態にもっと真剣に向き合うべきだったということだ。もし昨年末に米露が水面下で実質的な交渉でもしていたら、結果は変わっていたかもしれない。もとより元来の非は、東欧諸国を威圧・脅迫してきたソ連にある。が、NATOがこれほど東方に拡大していなければ、その後のロシアの態度も変わっていたのではないか。国際政治は何でも理非曲直で割り切れるものではない。そもそもの悪因がソ連やロシアでも、これを上手に抑えるべく超大国アメリカが「政治の智慧」を働かせていれば事態は変わっていたのではないか。さすれば、数千人もの無辜の民は死なずに済んだのではなかろうか。

 ところで、今回なにゆえ、米国と覇を競ってきた軍事大国ロシアから膨大な死者(数千人以上)が出ているのだろうか。専門家は一様に「なぜロシア軍はこんなにお粗末なのか」と驚いている。アメリカはウクライナに対し重要な軍事情報(将軍や戦車部隊の居場所等)のみならず、ハイテク兵器ジャベリン(精密誘導にて戦車をピンポイント撃破できる携帯型ミサイル)はじめ、最新兵器を多数提供している。軍事顧問団も200人規模(?)でウクライナに派遣していたとの情報もある。もしそれらが事実なら、アメリカは兵士は送らずとも、実質的な参戦状態にあったと言っても過言でない。ロシア軍によるウクライナの民への執拗かつ凄惨な攻撃は、実はアメリカヘの強い怒りとも読み解けよう。ロシアが外交文書でアメリカに正式に抗議した(22.4.15)ことからも、それは明らかだ。 戦場はウクライナでも、実質は米露代理戦争だったのである。 

 投入されたアメリカ製の最新兵器はウクライナで“試し撃ち”となった。電子装備その他であまり最新式でないロシア軍には勝ち目はない。アメリカは自らの血を流すことなく、最新技術の提供という美談的貢献の外装の下に、実は、ライバル・ロシアを殲滅し弱体化することで、軍事的な権益・利得・名声を独占しているのである。悪辣プーチンは決して許されないが、米製兵器の餌食にされた何千人ものロシア兵たちは哀れでならない。 

3. 国防を強化しても凄惨な結末という「現実」 

 戦争の経緯や実相を知れば、前述のように、ロシアによる侵攻を止め得るタイミングや可能性はいくらもあったのではないか、と思われる。この歴史的認識は決して外せないだろう。ゆえに、ウクライナ侵略を奇貨とした「やはり憲法9条ではダメだ」との改憲論には、慎重かつ冷静に対処していく必要があろう。

 世間では「国防を強化しなければ侵略されてしまう」という単純な議論が興隆しつつある。しかしウクライナはそもそも国防を強化していた国なのであって(旧ソ連内 第2の軍事力)、国防が弱くて侵略されたわけではない。むしろ、国防を強化していた国であってもこの惨状だ、という現実を忘れてはなるまい。更に重要なのは、もし非道な軍事国家とまともにぶつかれば、たとえ最新兵器を投入しても、国土は惨状と化し、多数の市民は凄惨な結末を迎えるという現実だ。しばしば改憲論者は「憲法9条は現実的でない」と批判してきたが、ウクライナの悲惨な現実を観れば、果たして改憲して大々的に軍事力を増強して戦うのが「現実」的な選択肢なのか、極めて怪しい。まさに何が本当に直視すべき「現実」なのか、という問題である。 

 今やロシアは世界中から強い非難と制裁を受け、もはやプーチン政権が国際社会に復帰するのは政治的にも経済的にも不可能だ。ウクライナなんぞ1週間で倒すぞとでも思ったのか、プーチンの読みの甘さは目を覆うばかりだ。泥沼の様相を招いた愚かな「裸の王様」に未だに気づけないロシア国民は悲劇だが、我々も決して笑えない。なぜなら、かつて軍事力を強化していた帝国日本は、中国なんぞ一撃で倒せるぞという「支那一撃論」の下に 中国を残酷に侵略し、しかしその後、日本自身への大空襲と原爆という泥沼の結末を招いてしまったからだ。

4.日本の改憲論の欺瞞的な誤り 

 自民党改憲案は、自衛隊明記、緊急事態条項、参議院の合区解消、教育の充実などだが、どれも法律制定で対応可能なものばかりである。が、真の狙いが自衛隊明記なのは明らかだろう。改憲派は今まで「自衛隊を憲法に書き込んでも、今までの憲法解釈を1ミリも変えることはない」と言ってきた。本当か?   もし本当にそうなら、なぜ改憲は必要なのか。そもそも改憲という国家的大事業は不要ではないか。この根本的疑問にぶち当たってしまうだろう。 

 すると安倍晋三ら改憲派はこう言う。「憲法学者の7割が今でも自衛隊を違憲と考えているからだ」と。この物言いは極めて欺瞞的だ。なぜなら、2015年に「憲法学者の9割が違憲」と強く批判していた戦争法制(いわゆる“安保法制”)を強行採決したのは、当の安倍政権だったからである。こういう見え透いたウソは、聞いているこちらが恥ずかしくなってしまうほどだ。改憲理由が虚構であることは、もう明々白々である。もし憲法に「自衛隊・自衛権」を明記すれば、“自衛”の名の下に軍事行動が野放図に拡大してゆくことは必至であり、軍事費の増大は火を見るよりも明らかだろう。 

 改憲は言うまでもなく国家的大事業だ。まして日本国憲法の大原理「平和主義」に抵触する9条改変となれば、国論は二分し、政治は大きな停滞に見舞われるだろう。このコロナ禍で、そんなエネルギーを割く余裕はないし、そもそも割くべきでない。 

 改憲派の言い分は、まるで大学受験の高校生が親に対し「お母さん、オレ最近すっごく勉強する気になってきたから、参考書買うために100万円くれないかなァ?」とねだるが如きである。高校生が緊急に必要な本なんて、当面1万円もあれば買えるだろう。母は言う、「まずは1万円渡すから、本当に必要な本だけ厳選して買い、きちんと勉強してみなさい」と。これと同様に、改憲(=100万円)とは、国民にとっては大変コストのかかる大事業だ。通常の国家運営で、すぐに改憲が必要という話になるはずがない。国会・為政者(=高校生)として、緊急に必要な内容は、すぐにでも着手可能な法律制定(=1万円)から取り組むべきだ。そして、どうしても改憲が必要な場合には、主権者国民(=親)にきちんと時間をかけて相談してからにすべきだろう。これが本筋ではないか。改憲の前にできること(法律制定)があるのに、それを手掛けずに、いきなり「改憲させて」と主権者にねだるのは、大きな筋違いというものだ。 

5. 改憲論「憲法9条は現実に合わせて変えろ」の虚構性 

 さて、そもそも“現実”とは一体何を指すのだろうか。自衛隊の武装レベルは今や世界で最高水準である。海上自衛隊のアメリカ製ハイテク戦艦「イージス艦」 (1700億円もの高額)はそれを象徴していよう。あるいは、陸上自衛隊はソ連上陸対策の90式戦車(10億円)を、ソ連崩壊後なぜか20年近く(2007年まで)300両も購入し続けた。3千億円もの巨額の無駄遣いだ。航空自衛隊の最新鋭戦闘機F35-Bは、ー機180億円もする。3兆円もの巨費をかけて今後147機も配備し、併せて日米両方のF35-Bを発艦させるべく、護衛艦「出雲」を空母化する。これらは歴然とした戦力そのものではないか。これらはどれも「現実」である。果たして、私たち市民はそんな現実を本当に望んでいるのだろうか。戦争や軍事行動によって利益を得る勢力が望んでいるだけではないのか。

 よく、「もし突然ミサイルで攻められたらどうするのか?」と問われる。しかしこのような抽象的で架空の問いは無意味である。なぜならミサイルは偶発的な自然現象ではないからだ。必ずそこには人為的な背景や理由があり、またそれを止め得る現実的な外交のタイミングや可能性が必ず存するからである。ウクライナ戦争はそれを端的に物語っていよう。しかも北朝鮮は日本を狙ってはおらず、あくまでもアメリカに対抗して行なっていることを忘れてはいけない(ただし在日米軍には危険因子あり)。ここ30年の歴史を冷静に振り返ればそれは明らかだ。

 それにだいいち、もし本当に日本政府が真面目に「北朝鮮がミサイル攻撃して来る」と信じているのならば、原発の再稼働など絶対に許されないのではないだろうか。ところが奇怪なことに、東日本大震災後の安倍政権は、日本海側や九州近辺など北朝鮮に近い原発(大飯・高浜、伊方、薩摩川内等)ばかりを再稼働してきた。なぜか?   自民党政権自身、北朝鮮が現実にはミサイル攻撃などしてこないとわかっているからである。 

 2021年度の日本の軍事費は5兆5000億円弱。これは年間の文教科学予算とほぼ同額だ。が、そのうち1兆3000億円は「科学」予算なので、国としての「教育」予算は年間4兆円しかない。更には、政府は憲法25条2項「公衆衛生」の重要性を顧みず、保健所予算を削減し続けてきた。1992年に852ヶ所あった保健所は、2020年4月時点で469ヶ所にまで半数近く減らされた。その弊害はコロナ禍で明らかとなった。日本の軍事費は世界で第8~9位。しかしジェンダーギャップ指数(世界経済フォーラム)は世界第121位。世界全体約150ヶ国を学校の一学年になぞらえると、「日本は軍事費では学年順位1ケタ、しかし男女平等に関しては学年順位121番前後の成績不良」ということになる。全てこれらは私たちの眼前の「現実」である。この現実は明らかに間違っており、逆転させなければならない。 

6.日本国憲法の哲学 

 そもそも戦争有事や軍事衝突は、地震のような偶発的自然現象ではない。戦争はあくまでも、貧困・大失業・経済破綻などの非軍事的要因を引き金とする人為的災厄である。これらを除去・緩和できるのは、軍事力の安易な発動ではなく、人間の叡知と努力以外にない。  人類は愚かな歴史を繰り返してきた。しかしその度に、賢慮もまた深まってきた。日本国憲法の前文「平和的生存権」と第9条の「戦争放棄・戦力不保持・交戦権否認」は、まさにそれを実定化したものに他ならない。非戦・平和の哲学は、決して負け犬でも逃げ腰でもない。むしろ極めて現実に則した原理であり、勇気のいる哲学であろう。日本国憲法はあえてこれを掲げることで、全人類の先鞭たらんとした。私たちはあらためて、このことを深くかみしめておくべきではないだろうか。

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