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2024-05-01

2024年5月3日の憲法記念日に寄せて

鈴木 眞澄(龍谷大学名誉教授)

 日本国憲法が施行されてから78回目の記念日を迎えます。ここでは、その憲法を考えるうえで象徴的な出来事を二つ取り上げます。

 一つは、4月1日静岡県庁の本庁配属になった75人の新人職員に対して行った川勝平太静岡県知事の訓示です。それは「県庁というのは別の言葉で言うとシンクタンクです。毎日野菜を売ったり、牛の世話をしたりするのとは違って、基本的に皆さんは知性の高い人たちです。」という部分が職業差別になりかねないとして批判されていますが、私はこうした発言の根底にある憲法感覚の欠如こそ重大だと考えています。新規採用の公務員に対して真っ先に行うべきは、公務員の「本分」の確認です。憲法第99条に「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う」と明記されているとおり、これが公務員の本分です。同条は、主権者国民が制定した憲法を全ての公務員に押し付け、自由で平等で平和な社会を創出するために、すべての公務員に憲法を尊重し擁護する義務を課したものです。それ故、民主主義はもちろん、立憲主義の根拠条文だとも考えられています(同条に「国民」という文言がないのはその為です)。ところが、日本という国では、歴代政権が「私の政権では憲法改正は行いません」と言うことはあっても、「この憲法を守って政治を行います」とは(決して)言いません。その為か、国民の日常生活のなかで憲法が意識されることは極めて稀で、故に「憲法は空気みたいものだ」という者さえ出てきます。川勝氏の訓示の背景にはこうした事情を指摘できますが、仮にも同氏は静岡県政の最高責任者だったのですから、その憲法感覚の欠如に静岡県民が失望やら落胆を覚えたのは当然と言うほかありません。 

 もう一つは、今年の4月7日は1994年の同日以降に起きた「ルワンダ大虐殺」から数えて30年目に当たり、ルワンダの人々がその記憶を忘れないように国を挙げて追悼式典を行ったという話です(4月19日NHK時論公論「人はなぜ殺しあうのか―ルワンダ虐殺から30年」を視聴)。ルワンダではフツとツチの対立がもとで、30年前には100日間で80万人が虐殺されました。宗主国ベルギーの占領政策、メディアによる扇動などが原因と言われていますが、カガメ大統領の強力なリーダーシップの下でフツとツチの区別を廃止し、国民の融和が進み、女性を積極的に登用する憲法改正を行うなどして、今日では「アフリカの奇跡」とまで言われるほどの経済発展をしています。しかし、注目すべきは、ルワンダの人々が虐殺の悲劇を乗り越えたその過程です。映像は、シーツにくるまれた累々たる死体の山をルワンダの人々が無言で凝視しているシーンを捉えます。

 2024年の今日でも地球上から戦争は無くなりません。人類は歴史上営々として「戦争の原因」を探り、どうしたらその原因を除去できるかを考え、多くの時間を費やしてその「解決策」を模索してきました。その到達点が国連ですが、その国連は今や完全に機能不全に陥っています。しかし、ルワンダの人々の無言の凝視は、私たちに重要な真実を訴えています。それは「戦争の原因」ではなく、「戦争そのもの」に向き合うことの大事さです。「戦争とは人殺し」です。これは(例えば)瀬戸内寂聴さんが終生言い続けた言葉です。国益やら宗教やら民族やらを持ち出して「戦争を正当化」しても、その先で人類が行うのは、人間同士の「殺し合い」です。国益や宗教や民族のために人間が殺されるのは仕方のないことなのでしょうか?「人はなぜ殺し合うのか」という問いたては、「戦争の原因」を突き止め、その「解決策」を考える前に(と同時に)、「戦争とは人間同士の殺し合いだ」という、誰にも否定できない真実に正面から向き合うことの大事さを、人類につきつけています。ルワンダの人々の沈黙の凝視がそれを教えています。この「覚醒」がない限り、人類は永久に戦争から逃れられないと思います。そしてこれが憲法第9条の真髄に他ならないと思います。

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