「普通選挙法・治安維持法制定100年」に思う
石村 修(専修大学名誉教授)
100年前の1925(大正14)年3月に、「普通選挙法と治安維持法」が相前後して制定された。1923年には関東大地震が起こり、不安定な政情の渦中で、後に評価が分かれる二つの法律が制定されたことになる。私には続く1930年、1940年に向かって進む日本の軍拡の時代を生み出す悪法の成立であった、と思わる。
この法については、「アメとムチ」の政策と言われることがある。確かに前者の普通選挙法は、明治時代から求められてきた「自由民権」運動の一応の最終到達点として評価される向きもある。「大正デモクラシー」の象徴がこの成人男子におしなべて与えられた「普通選挙権」の実現であるが、長いスパンで展開されたこの運動は、性格を変えて展開されてきた。最後にこの運動に加わった貧農の権利を実現したという意味では、評価できる部分もあり、国会開設によって多層の利益が体現される期待もあった。しかし、制度は詳細に見なければならない。最も肝心な点は、平等の視点が欠けており、「女性」が除外され、自由な選挙活動が閉め出されていた。つまり、新聞・出版・集会が規制されていた時代にあって、「自由・公正」な選挙運動が展開できなければ、これは普通選挙とは言えなかったことになる。1923年1月に「婦人参政権同盟」が作られているも、これは無視された。この法は、決してアメではなく、政治活動が規制されたムチに繋がる法であったことになる。
ムチと評される「治安維持法」が、「普通選挙法」と対で制定された意味を考えたい。この法を体系的に研究した奥平康弘氏の表現(治安維持法小史)では、明治期の治安体制に代わって「新しい治安体制づくりを企図し」たもの、とある。明治期には一斉に新しい思想が入り込み、翻訳本で多く生まれ、その熟成が大正期であった。しかし、政府を構成する層は、敢えて古典的な日本主義の再構築を試み、その結実を「国体・政体」に顕わした。憲法学もこの動向に反応したことになり、意図して作られた天皇像=国体を、あらゆる分野で使用・強制するに及んだ。
人工的に作られた伝統的文化思考が「天皇信仰」であり、一方でこれを布教し、他方で、これに反する思考を禁止し、その違反者を法によって罰することになった。まず「過激社会運動取締法案」が国会に出された。これは法の内容が杜撰であったために流れたが、その2年後の「治安維持法」は、完成型として国民の前に現れ、国民の思想の自由を奪い、公認されたイデオロギーのみを国民にすり込むことを企図した。
まざは「無政府・共産・社会主義」をターゲットにし、2度の改正を経て「主義者の外郭思想」「労働、文化、学問、宗教」の領域に関わり続けた。典型的な恐怖政治は、内務・特高警察と司法・検察の両面で押さえ込んだ。こうして戦争に追随する国民を生み出し、20年間の治安維持法体制が継続した。国家が作り出した隣を監視する装置は、主義者の告発に繋がったことになる。
日本国憲法では、婦人選挙権を認めた選挙権が保障され(14条、15条3項4項、43条、44条、93条2項)、選挙権は18歳まで引き下げられ、在外選挙権も認められた。他方で、個人の尊重(13条)に依拠して、思想・良心の自由(19条)と信教の自由(20条)が保障され、基本的人権の内実は実現した。今あるこうした法状況は、たやすく侵害されてきた時代を想起し、さらに、ナイーブな内心領域を理解した上で、これらの法領域を観察して行かなければならないであろう。比較憲法的にも珍しい内心の自由が保障されたのは、負の歴史の反省に依ったものであった。「侵してはならない」ものは、当人の判断だけで保護される環境が整って行かなければならないであろう。