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2020-08-18

この人にここが聞きたい 第2回 大久保賢一氏

大久保賢一氏(弁護士・日本反核法律家協会事務局長)の『「特攻最後の証言」を読む』のエッセイです。100歳と98歳の元特攻隊員兄弟の証言についての感想です。戦争を知る人の証言は重いです。私たちの発想と行動の原点にしたいですね。ご一読ください。

『特攻最後の証言』を読む

大久保賢一

 岩井忠正さん(100歳)と岩井忠熊さん(98歳)兄弟が語り合う『特攻最後の証言』が出版されている(河出書房新社)。二人は、旧帝国陸軍少将の家に生まれた兄弟で、二人とも「学徒出陣」で兵隊となり、旧帝国海軍の「特攻隊」に志願した人たちである。「特攻隊」の生き残りである二人が、「私が犯した過ちを、二度と繰り返してはいけない」、「戦争の無意味さを後世に伝えなければいけない」と語り合っている。

 忠正さんは「回天隊」、忠熊さんは「震洋隊」という「特攻隊」に所属していた。「回天」というのは、「天を回らし戦局を逆転させるため、人間を魚雷にしたもの」だという。魚雷の3倍もの爆薬を搭載して、敵艦に突っ込んでいく特殊兵器で、脱出装置などはついていない。忠正さんは上官に「これはお前たちの棺桶だ」といわれたという。宮本百合子の「播州平野」は、「…搭乗した特攻隊員で還るものはなかったし、大洋までいったものさえなかった。人間魚雷の多くは粗製で途中で爆発し、沈んだ」と描写している。忠熊さんの「震洋」は、ベニヤ板製の高速艇で頭部に250キロの炸薬を仕掛け、敵艦隊に体当たりする兵器だという。米軍上陸を阻止するために輸送艦などを水際で撃沈する兵器として期待されていたそうである。けれども、米軍は震洋艇の存在を知っていてsuicide boat(自殺艇)と呼んで防御方法を講じていたという。忠熊さんは、「青年たちの命」が武器として使われた。「これでは日本は勝てっこない」と思いました、と語っている。

  忠正さんは、「伏龍隊」という特攻部隊にもかかわっている。米軍の本土上陸作戦を想定し、潜水服を着用して上陸地点の海中に潜み、竹竿の先に取り付けた機雷で、敵の上陸用舟艇を攻撃する部隊だという。この伏龍の潜水服を身に着けて海中に入ると背中に重量物を背負っているので常に前かがみにならなければならない。そうすると見えるのは前方数メートルの海底だけ。目標の敵の上陸用舟艇を見ようとすると海底にあおむけにならなければならない。そうすると、背中に重量物を背負っているので、裏返しにされた亀のようになり、いくらもがいても何の動作もできなくなるという。「こりゃきっと漫画から思いついたんだぜ」と批判されていたという。

 忠正さんは、人間魚雷の「回天」と人間機雷の「伏龍」を体験した稀有な存在として、「伏龍」は「回天」よりもバカげた兵器だった。このような軍の非合理性に人一倍疑念を抱いた。「大和魂」などといって人をだまして死に追いやるとはけしからん!と腹が立った。当時、ほとんどの兵士は「日本は負ける」と思っていた。だけど、口に出すことはできなかった、と述懐している。

 米軍は、本土上陸作戦も考えていた。彼らの戦闘能力がどの程度のものであるか、日本軍も承知していたはずである。米軍は、核兵器を開発し、それを実践で使用していた。他方、日本軍は、戦闘員から「漫画から思いついた」と揶揄されるような戦闘を考えていたのである。私が、この本で再確認していることは、日本軍の何とも情けない非科学性と非人道性である。忠熊さんは、この本の中で、ドイツにも特攻はあったけれど、途中で、パラシュートで脱出してもかまわない。日本の場合は、特攻機と一緒に必ず死ななければいけない、としている。大日本帝国は、陸軍も海軍も、兵士を「鴻毛より軽く」扱っていたのである。二人の対談は、日本軍の野蛮さと幼稚さと無責任さを、75年の歳月を超えて、ひしひしと訴えかけてくる。

  ところで、二人は、「日本軍は負ける」と考えていたようだし、忠正さんは「ほとんどの兵士が日本は負ける」と思っていたとしている。もちろん、兵士たちがどう思っていたかのアンケート調査などはありえないし、あったとしても、本当の気持ちを回答するとは思われないから、当時の日本軍兵士たちの心情は推測するしかない。けれども、二人とも「日本軍は負ける」と思っていたのである。このことは限りなく重い。

 二人の父親は、陸軍少将である。家には、甘粕正彦が訪ねてきたようだし、満州事変が起きた時には退役していた父親に第一報が寄せられ、父親は、「やったか!しめたっ!」と叫んだという。他方では、エンゲルスの「家族・私有財産・国家の起源」や河上肇の本があったという。そして、共産党弾圧について、「天皇陛下をないがしろにした罪で捕まったの。でもね。この人たちは決して悪い人たちではないのよ。戦争が起こらないように運動したり、生活で困っている人たちを助ける運動をしている人たちなのよ」と話してくれる兄嫁もいたようである。

 忠正さんは、「正しいことをしても捕まるんだ」、「悪い連中が正しい人たちを取り仕切っているらしい」と子供心にも思い、以来、何事も自分で考えるようになったと回想している。

 忠正さんは、あの戦争は侵略戦争だ、日本は必ず負けると確信していたけれど、「特攻隊」に応募している。直接的な動機は、愚にもつかない精神論を叩き込まれるのが嫌だったからだというけれど、死ぬことは避けられないと知りつつ、「天皇のために死ぬのではないぞ」という思いも秘めていたという。そして、「死ぬ覚悟をしているのに、なぜ戦争に反対しなかったのか」と悔やんでいる。仲間は少なからずいたはずなのに、組織だった反抗もせず、沈黙を続けてしまった。天皇制に疑問を呈するだけで、治安維持法で捕まってしまう当時の風潮に無意識に加担してしまった。沈黙は中立ではない。風潮に迎合することで戦争推進者になっていた。それが私の「戦争責任」だと思う、としている。そして、「どんな時代でも、ハッキリ意見が言える人間に」と呼びかけでいる。
二人が幼年期、青年期を送っていた日本では、治安維持法下で多くの共産党員などが、逮捕され、拷問され、殺され、投獄されていた。今、香港では民主派の人たちが、香港国家安全維持法の下で、中国政府に対する抵抗運動を展開している。忠正さんの呼びかけは普遍的内容を含んでいる。けれども、その実行は決して簡単なことではない。まさに命がけのことなのだ。私たちは、香港の民主派に対する共感と合わせて、日本の治安維持法下の被害者の運動(治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟)にも関心を払わなければならない。

 忠熊さんは、1945年3月、「震洋隊」の艦隊長として、米軍の沖縄上陸を阻止するために移動中、米軍の潜水艦に轟沈され、東シナ海を3時間漂流している。終戦後、「こんな戦争は間違っている。日本はなぜ戦争をしたんだ?戦争の無意味さを後世に伝えなければならない。そのために生涯をかけて戦争の真実を突き止めていく」と誓って近代史を研究したという。そして、戦争はひとたび始まってしまえば歯止めがきかない。日本は特攻隊を作り、米国は核兵器を使用した。「備えあれば憂いなし」といわれたけれど、軍事力という「備え」は「憂い」を作り出す根本になってしまった。憲法9条の「戦争の放棄」と「戦力の不保持」は国家という怪物の歯止めとなってきた。それを無視して「備えあれば憂いなし」をいうことは、「備えあれば憂いあり」ということになる、と警告している。

 今、政府は「抑止力」を強化するとしている。相手国に恐怖を与え、その行動を制約しようという戦略である。「抑止力」の内容は自衛隊の強化であり、アメリカの核兵器である。要するに、戦争に備えよというのである。北朝鮮や中国が、自衛隊や米軍に恐れをなしているという話は知らない。北朝鮮は、米軍や韓国軍と直接対峙しているけれど、核兵器の開発をしている。米軍の核兵器は、北朝鮮の行動を抑止していないのである。「平和を望むなら戦争に備えよ」というのは、「備えあれば憂いなし」と同様に、軍拡競争の掛け声なのである。「敵基地攻撃論」はその典型である。

 二人は、日本がアメリカと戦争をしたことを知らない若者たちも含め、戦争とはどういうものであるかを伝える義務があるとしている。一人一人が政治に厳しい目を持ち続けなければならない。9条を変えることなど絶対許してはならない、と結んでいる。世界各地で使用可能な核兵器の開発と配備が進み、日本政府は「核兵器」を必要な道具としている。他方、心ある科学者は「終末まで100秒」と警告し、核兵器禁止条約の批准国は44ヵ国となり発効まであと6か国となっている。

 いつの時代も、戦争容認勢力と反戦平和勢力はせめぎ合っている。二人の対話は、これからの若い人たちだけではなく、私のような前期「団塊の世代」にとっても、年の離れた兄貴たち(あるいは親の世代の人たち)の話として、胸に沁みてくるし、耳を傾け続けたいと思う。(2020年8月16日記)

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