toggle
2026-05-02

日本国憲法制定に関わった二人の鈴木 石村 修(専修大学名誉教授)

 今年の憲法記念日は、例年になく緊張した雰囲気の中で迎えることになった。憲法を擁護する立場にある首相が、憲法の基本精神をないがしろにする言動を繰り返し、憲法破壊の様相を体現している。日本国民が近代立憲主義の趣旨を受け入れた憲法を、あたかも自分の好みに合わせて改正しようとする動きが顕著である。例えば、「武器輸出3原則」の緩和は、憲法9条の内実を失わせるものである。憲法の枠組みの中に取り籠められた筈の政治指導者が、最高法規である憲法を自ら破壊することは許されないことは明白である(憲法99条参照)。日本国憲法が今日まで存続しているのは、その普遍的な内実を国民が継続して学習してきたからであろう。そこで、日本国憲法が生まれた物語を、今年は、再考してみることにしたい。

 ある憲法学会で、「憲法を生んだ二人の鈴木」というシンポジウムがあり、私も報告者の一人として参加した(憲法理論研究会編「激動する世界と憲法学」敬文堂、2025年)。最初の戸田報告は、鈴木安蔵が置かれた特殊な立ち位置に言及していた。鈴木安蔵は「社会主義」という思想をもち、歴史の発展法則の中で、近代と向き合った。安蔵自体は、治安維持法による思想弾圧を受けた後に、「現実の憲政を批判するために」(19頁)自分の立ち位置を修正した。その安蔵が誇りをもって参加したのは「憲法研究会」であり、唯一の憲法研究者として「憲法草稿要綱」に与り、完成した新憲法条文案を関係諸機関に配布した。市民型憲法改正案は、政府の改正案と異なり、戦後の立憲主義型憲法を学んだものであったが故に、GHQ側も無視できなかった。

 仁昌寺正一が報告した鈴木義男は、国家主義の犠牲者として大学を追われ、弁護士になった。やがて敗戦を機に国会議員となり社会党で頭角を現わした。明治憲法の修正に過ぎなかった政府案がGHQ側から拒絶されるなかで、示されたGHQ案に、新たな選挙制度の中で生まれた議会が向き合う場面である。義男はドイツ流の憲法・行政法が解る学者として、「帝国憲法改正小委員会」に臨んだ。この芦田委員会ではもっとも多く発言して論争を促し、修正と新たな条項を求めた。ここで有名な9条の原型が創られ、生存権と刑事補償規定の新設が促された。数年後の「情報公開法」の制定をもって、芦田との論争の記録は、やっと公開され、国民は読むことができ、委員会の活躍を知りことに成る。

 最後の私の報告の役割は明確であった。この日本国憲法は、戦勝国によって「押しつけられた」ものではなく、日本国民がその憲法の条項の意味を知り、立憲主義そのものを受け入れてきたのである。同郷の吉野作造の遺産を受け継いだ二人の鈴木は、自由民権思想の洗礼を受けて「反戦・平和」を唱え、歩み方を異にしたが、実践的平和主義者となった。

 今の世界情勢は、自国の優位を強調し、他国を顧みない指導者にあふれている。世界のどこかで生じてきた戦争の原因は、自国のみを優位においた思考態度であった。しかし、憲法の価値原理に依拠する理念も、草の根で生き続けているに、我々は未来を託さなければならないであろう。相互が理解し合い、他者を敬譲する思考をもった連帯行動を推進することに、憲法思考が活かされれば、平和の方途が見えてくると思われる。日本国憲法はこうした憲法の模範であり続けてもらいたい。

関連記事